論文

 1955年から65年まで監督、66年から75年まで総監督を務めた米田満 元関西学院大学教授が59年に「アメリカンフットボールの起源とその発展段階」 という論文を書かれています。アメリカンフットボールをより深く理解するために 非常に有効だと思われますので、ご本人の了承を得てホームページ上に掲載させて いただきます。


アメリカン・フットボールの起源とその発展段階

米田満   

緒言

 アメリカン・フットボールが生々発展して現在に至った、その過程は実に興味深い。 このスポーツの進展はアメリカという未開の新大陸が営々として建設され、次第に巨 大な合衆国が構成されていった民族の歩みと軌を一つにするものがある。それだけ にフットボールの中にはアメリカ人の国民性を形成する数々の要素が含まれていると いえる。そこには開拓者精神があり、合理主義、楽天主義思想あり、また実用主義思 想ありで、フットボールの中にアメリカ人の躍動を見、アメリカという国家的背景を 感ずることが出来る。
 本編はこの一年、東京大学教養学部の研究生として指導を頂いた機会に終了論文と してまとめたものである。もとより研究不十分であり、その正確な解明、詳細な吃味 に今後とも時間をかけて勉強していくつもりである。

  第1章  サッカー及びラグビー概観
  第2章  創生期のフットボール
  第3章  ラグビーの魅力
  第4章  アメリカン・フットボールへの移行
  第5章  飛躍的発展期に入る
  第6章  フォワード・パス時代始まる
  第7章  フォーメイション・フットボールの推移
  第8章  シフトの流行
  第9章  Tフォーメイションの拡大
  第10章 近代フットボールの種々相
  第11章 フットボールの問題点
  

第一章 サッカー及びラグビー概観


 アメリカン・フットボールは英国のサッカーおよびラグビーにその端緒を有する。 現在の姿が内容、外観、すべてにおいて、全く独自のものであるという厳然たる事実 があるにしても、アメリカン・フットボールがその本質においてキッキング・ゲーム (kicking game)たるの一面を持っているのはサッカー及びラグビーの流れを汲むた めであろう。サッカーは古い歴史と伝統を持ち、ラグビーは1823年、突如革命的に創 始されたといわれるスポーツである。

 1 サッカーの起源


 サッカーの始まった時期については、諸説まちまちで、権威をもっていうことはで きない。古代研究家の中にはサッカーがエジプトの肥沃な土地を讃える儀式に端を発 するというものもあるが、もとより莫然としたものである。支那でも「紀元前300年 から500年にかけて、フットボールは極めて人気のある娯楽であり、円いフットボー ルは髪の毛をつめて作った」とジールズ(H.G.Giles)がフットボールのことに触れ ている。古代ギリシャのハーパストン(Harpaston)及びそのギリシャ人からローマ 民族に伝えられて盛んになったハルパスツーム(Harpastum)がともにサッカーの起 源だともいわれる。古代ローマのハルパスツームはジュリアス・シーザーの軍隊によ って英国の国民に教えられ、次第に根強く拡がっていった。
 英国の伝説によれば各地で懺悔火曜日(Shrove Tuesday)にボールを蹴る競技が行 われたという。チェスター(Chester)の町では紀元217年、彼らの祖先がローマの軍 隊をチェスターから追いはらった偉大な日を記念するため数世紀にわたって競技会が つづけられた。12世紀末、ウィリアム・フィツステッフェン(Wiliam Fitzstephen) が出版した”ロンドンの描写”(Description of the City of London)という書物 に「懺悔火曜日にボール・ゲームをする」という見出しがあり、このゲームの歴史的 な最初の記述といわれる。後年、懺悔火曜日は英国におけるフットボールの祭典とな った。この休日には身体を動かせる市民は誰もかれも午後のゲームに参加し、競技は 市長のキック・オフによって開始された。
 当時のフットボールは近代サッカーに似た点は少なく、粗野単純でむしろラグビー に近いものであった。ゲームは数百人が参加して行われ、町と町、村と村が互いに挑 戦して争った。ボールは蹴ってもよく、持って走ってもよく、実に乱暴極まるもので あり、一方が他方の領域の一定のゴールにボールを蹴りこむまで、またはすっかり暗 くなって中止を命ぜられるまでは何時間でもつづけられた。スコットランドの至る所 でフットボールが行われ、聖燭祭(Candlemas Day)の休日には合同でゲームが行わ れた。
 このボール・ゲームは14世紀中葉には当時の軍事力の主力となっていた弓術の練習 を妨げるとの理由で、1349年、エドワード三世がプレーを禁止する勅令を出し、この 時初めて、フットボールという呼称を用いた。その後も15、16世紀を通じて数次の禁 令が出されたのはその根強い人気を示す証拠であり、フットボールは数世紀の間、英 国において花と咲いた。17世紀に入ってピュリタニズム(Puritanism)が力を占める に至り、フットボールなどの球技の人気は一時衰えたが、19世紀の中葉、パブリック ・スクールの校技として再生した時には、近代フットボールのもつキックとドリブル の基本的要素がかなり濃厚なものとなっていた。

 2 ラグビーの起源


 1823年、ラグビー・スクールにおけるフットボール・ゲームのさなかで突如起こっ た一事件が、今日のラグビーを生み出す直接の、そして決定的な契機となった。この 革命的な事態は全く偶然に、瞬間の衝動によって生まれた。その状況はつぎのごとく 記されている。
「1823年の秋の一日、100人以上の少年がゲームに夢中になっていた。双方の激しい 攻防は互いに得点の機会なく、次第に時は過ぎていった。エリス(William Webb Ell is)という一人の少年が相手の蹴ったボールを取った時、丁度五時を告げる時計の最 初の鐘が鳴った。この学校の規則ではすべてのゲームは五時の時計がすっかり打ち終 ると終了することになっていた。そして当時の規則に従えばフットボールはすべて足 のゲームであり、ボールを取った者は後方へさがってフリーキックを行うべきであっ た。しかるにエリス少年は鐘の音に狂わされたのか、ボールを取ると必死の霊感によ って規則と慣習に反して、ボールをしっかり小脇にかかえたまま前方へ突進した。そ して相手の防御を縫ってついにゴール・ラインを突破した時、丁度五時を打つ最後の 鐘の音が天空に鳴りひびいた」
 ゲームのあらゆる妥当性をこわしてしまったこの行為をみて、友達連中は全くあき れてモノもいえなかった。その奇想天外のプレーに対しては、公正でない、適切でな い、紳士的でないなど、数々の非難が浴びせられ、厳しい制裁の対象となった。当時 の感じとしてはまさにその通りであった。しかしこの暴挙が、何ものをも貫かねばや まぬ若さの然らしめたものであり、彼の革命的プレーの中に考えるべき何らかの要素 があるという感情が生まれていったのはそう遠いことではなかった。1846年、ラグビ ー校校庭の”朝の会”で36ヶ条から成るラグビー校フットボール規則が裁可されたの は、ボールを持って突進するプレーを合理、組織化しようとしたラグビー校関係者の 美わしい信念に基を有するものであり、エリス少年の革命が近代フットボールへの一 エポックを画する尊厳な行為であると認定されたのである。伝統に対する反逆者の治 蹟と、エリスの名はラグビー校の一壁間に置かれた碑に燦然と刻示されている。
   This Stone
Commemorates the Exploit of
William Webb Ellis
Who with a fine disregard of the rules of
Football, as played in his time,
First took the ball in his arm and run with it,
Thus originating the distinctive feature of
The Rugby Game
A.D. 1823
   碑文
W.W.エリスの功を記念して。
 当時のフットボールの規則を見事に無視して
 初めてボールを握って走り、ついには
 ラグビーという独特の競技を
 創始するに至らしめた
 エリスを記念して
    1823年

 3 サッカーとラグビーの分離


 エリスの反逆に端を発し、やがて英国には二つのフットボール・ゲームが行われる ようになった。それはいずれもそれぞれのルールのもとに、あるいは伝統のまにまに 、または指示された慣習に従ってプレーされていた。1862年12月、ロンドンの茶寮” フリーメーソン”(Freemason's Tavern)にキッキング・ゲームをしているクラブが 集まり、ロンドン・フットボール協会(London Football Association)が創立され た。そしてルールが起草され、ボールを持って運ぶことを禁止した。この時以後、こ の種のゲームはアソシエーション・フットボール、またはサッカーとして知られるよ うになった。
 一方、ラグビー校規約と、競技方法を固執してやまなかったブラックヒース・クラ ブ(Blackheath Club)は協会のルール解釈に対して意見の相違を来たし、ついに協 会から単独脱退したが、1871年1月には20チームの加盟を得て彼ら自身の連合を図り 、ラグビー・フットボール・ユニオン(Rugby Football Union)と命名した。ここに サッカー、ラグビーの間に明確な一線が引かれ、完全な分離に至ったのである。1872 年、ラグビーの地においてオックスフォードとケンブリッジ両大学が最初のラグビー ・ゲームを行った。
 以上が簡単なサッカー及びラグビーの背景である。このゲームはやがてアメリカに 伝えられ、それからアメリカ式のフットボールが生まれた。1823年、エリスのなした 功績がアメリカン・フットボールの発達に決定的なものを与えたわけである。ラグビ ー校で生を受けたこの競技は半世紀ののち、カナダの一学校がハーバード大学を訪れ たために普ねくアメリカの大学に行きわたることとなった。そしてそのフットボール は初期のラグビー時代を遥かに凌駕する豪快な突進力をみせ、思考力、技巧、作戦な どを大きな要素とする高度に発達したゲームにまで進展していった。そのスピード感 において全くアメリカ的と思われるゲーム、ブロッキング、タックルなどの激しい体 当たりの動作、それに攻撃、防御を作り出す頭の働きなど、このゲームは次々と輩出 した頭脳的なコーチのゲームであったといえよう。アメリカン・フットボールこそは 、アメリカの地における半世紀にわたる実験と進歩の過程を経て発展していったゲー ムということができる。




第二章 創生期のフットボール


1607年、初めてヴァージニア州ジェームスタウンに一団の移民が上陸してアメリカ植 民生活の先鞭をつけた。そして自由の新天地、アメリカの開拓は以後数世代にわたっ て営々としてつづけられた。東から西へと新しい辺彊を求めての苦しい生活が久しく つづいたあと、1776年の独立宣言から1783年の合衆国成立、そして1861年から4年に 及ぶ悲惨な南北戦争という数々の試練を経て、アメリカの背骨は次第に確固たるもの となっていった。この間、新世界の先駆者たちの努力は次第に実を結ぶようになり、 一般に物質的な苦労は著しく軽減されて、18世紀末から国家意識と国民的自覚の高ま りとともに智力万能主義の一時期が謳歌された。この間、体育面に関しては新しい共 和国の市民としての健康と体力の発達に主眼が置かれたのみで、スポーツという段階 になると、何ら一般的な支持も関心もなかった。しかし1840年代終りごろから色々な スポーツが多少興味をもってなされるようになり、とくにフットボールは野球ととも に次第に人々の関心を惹き始めた。東部の大学における学内対抗競技が人気を集め、 1870年にかけて比較的緩慢ながら徐々なる発展をつづけ、1869年、最初の学校対抗フ ットボール、そして1873年、大学対抗ルールの制定へと歩を運ぶ。この間のフットボ ールはいずれもサッカーというべきものであった。

 1 植民時代のフットボール


 アメリカにおけるフットボールは初期の植民時代にさかのぼる。最初の移民は作物 を作り、屋根を葺き、外敵に備えるなど、多忙な苦しい生活をつづけたが、漸くそう したことにも馴れて多少の閑暇を見つけるようになると、何か気晴しになるものを求 めたに違いない。そして、その一つとして母国でやっていたあの簡単なゲームを思い ついたに違いないが、全く自然の成り行きと考えられる。このゲームはある種のボー ルさえあれば、他に何の用具も要らないし、また人数の制限もなくて移民の心を和ら げるに適したものであった。
 アメリカにおける最も古い記録としては、1609年に植民たちが、ふくらました円い 空気袋を蹴っていたという証拠がある。ニューイングランドや中部大西洋岸植民地で は”市の立つ日”(market day)、”納屋の棟上げ式の日”(barn-raising)、”共 同でトウモロコシの皮をむく集まり”(husking)のような共同生活、そして感謝祭 の集まりの時などにフットボールを蹴る習慣があったようだ。このフットボールはチ ームの人数は不明だが、大ていは若者ばかりが参加し、ただ相手のゴールに向かって ボールを蹴るというだけの最も粗野な姿のフットボールであり、チームプレーとか作 戦などはめったに見られなかった。
 17世紀、18世紀にかけて様々な社会機構の発達に伴い、フットボールも次第にグル ープの競技会となり、互いの技能を競い合うようになってきたが、17世紀のアメリカ を旅行した人が、「フットボールはインディアンのゲームである」と書いているとこ ろからみても、フットボールをインディアンに教えるほど、しばしば多くのゲームを 行ったことは明らかである。しかしながらこの時期の競技会は学校生活にはほとんど 何の影響も及ぼさず、本質的には一般民に関するものであった。

 2 肉体軽視の風潮


 19世紀以前の植民時代には若者が中学から大学に入ると、専ら研究と学識の生活に 浸って慰安、娯楽などはほとんど与えられなかった。ウォーカー(Francis A. Walke r)が指摘しているように「初期のアメリカの大学においては身体的な腕前とか、そ ういった面の関心とかは全く軽蔑され、頭脳と筋肉とは反比例的に発達し、腕力は野 蛮行為と同類だと思われていた」。こういう風潮はピュリタニズムによる精神第一主 義、肉体軽視の思想をそのまま反映したものであり、また植民生活の厳しさから、遊 びは怠惰を意味するとの根強い考え方にも影響されるところ大であった。当時の大学 生の大部分が牧師になろうと志していたという事実は、疑いもなくこうした態度と密 接な関係がある。
 しかし幾つかの大学で抑圧されがちではあっても、時にゲームの曙光がみられ、18 世紀に入るとハートウェル(Hartwell)が”ハーバード大学の昔の習慣”(the Anci ent of Harvard College)の第16章を引用した中に「ハーバードやエールの大学生は 時折、公共地や道路でフットボールを蹴り、一、二年生の間に年一回のゲームが行わ れたが、そのゲームはサッカーよりは現在のアメリカン・フットボールに見られる激 しい性質に似た面を多分に持っていた」とある。しかし、もとより明確な組織もルー ルもなく、ただ気球のようにふくれたボールを使ったゲームに過ぎなかった。
 イギリスのパブリック・スクールではすでに18世紀後半までに極めて粗暴なサッカ ー式のフットボールがかなり流行していた。アメリカの一部大学においても独立戦争 後、この影響を受けて、一部の学生がボールをキックしていたものと考えられている 。たとえばエール大学では、すでに1765年に条件つきで手を用いることを許された一 種のフットボールが行われていたと伝えられている。1806年のエールの学生生活を描 いた絵の中に、数人の学生が大学前の広場でボールをキックしている光景をとられた ものがある。これはアメリカにおけるフットボールを描いた最初の絵と考えられてい る。当時のフットボールは一定のルールを持たず、ボールをキックする時以外には、 手の使用が禁じられ、ボールを持って走ることは許されなかった。ボールは皮張りで 、内部には動物の”ぼうこう”をふくらませたものか、”おがくず”が詰められてい た。エール大学においてはフットボールが消極的黙認を受けていたものと思われる。

 3 大学初期のフットボール


 大学のフットボールに関して、初めて信ずべき資料を提出しているのは1820年のプ リンストン大学である。その学生たちはボールオウン(ballown)と呼ぶフットボー ルに興味を持ったが、そのやり方は拳を使ってボールを叩いて前進させるものであり 、のちにボールを蹴るようになった。1840年ごろになると、ゲームは少しばかり組織 的になり、決まった競技会が行われ、互いに場所を交換するようになった。
 1827年、ハーバード大学の、一、二年生が学期初めの最初の月曜日にフットボール をするという習慣が始まった。この日はのちに”血の月曜日”(Bloody Monday)と 呼ばれて有名になった。このプレーは実に乱暴極まるもので、互いにボールを蹴らず に身体を蹴り合うという騒ぎで、服はボロボロに破れ、負傷者が続出する始末であっ た。ために1860年、教授会はこのゲームの禁止令を出した。エール、アマースト、ブ ラウンらの諸大学でも同様、1840年ごろに学生が群がり暴れる粗野なフットボールが 行われ、1858年、エール大学の騒ぎに対して市会が市の緑地使用を断ったため、この ゲームはつづけられなくなった。
 このころのフットボールはルールもなく、一チームの人員もきまらず、全く出まか せの方法で行われていたに過ぎなかった。やりたいと思う者はだれでも豚の皮袋をふ くらませたボールを動かし、単にキックするだけでなく、互いに押し合い、なぐり合 い、喧嘩口論の目茶苦茶な騒動であった。1850年ごろから東部の各大学のクラス対抗 フットボールが人気を集めるようになり、1855年に円いゴムボールが現れると、プレ ーヤーはボールを遠く、また正確にキックする技巧を覚え、またボールをドリブルし たり、相手の妨害を避けるため味方の者にうまくボールを回したりもするようになった。
 この時期の大学競技に対する教授会の態度は概ね寛大であり、学生の第一義ともい うべき学究生活を正しく維持しながら運動をするなら一向に差し支えないという考え 方であった。

 4 中等学校におけるフットボール


 中等学校でのフットボールは大学におけるより以前に組織づけられていた。大学の ゲームが行われたのは1869年以前にはないが、すでに1860年にボストン公地では中等 学校同志が互いにゲームを行っている。これにはボストン・ラテン校、ロックスビリ 校、ドーチェスタ校、ボストン・イングリッシュ校、ディックスウェル校などが参加 した。1862年、ニューヨークのピーターポロからディックスウェル校に入学したミラ ーという17歳の少年がボストンでグループを集めてオネーダ・クラブを組織した。こ れはアメリカにおける最初の明確なフットボールの組織である。このクラブは1862年 から1865年にかけて多くの参加者があったが、その間一度も負けることなく、しかも いずれもシャット・アウト勝ちをつづけた。1825年11月21日、このクラブがロンドン ・フットボール連盟よりも早く作られたことを記念して、ボストン公地の入口で大理 石で作った記念碑の除幕式が行われた。

 5 軍隊におけるフットボール


 1861年、ヴァージニア州ウィンチェスターのキャンプ・ジョンソンにあった第一メ リーランド師団の兵隊が競技をしている木版が現存しているが、これはまさしくサッ カーであり、ほとんど全部の兵士がこれに参加しているようである。その内容はいず れも不明であるが、大学対抗フットボールが始まる以前に軍隊においてゲームが行わ れていたという証拠になる。

 6 大学対抗フットボールの創始


 南北戦争の間は大学でのプレーも著しく減少していたが、1865年の停戦からまた回 復し始めた。1867年プリンストン大学ではルールができて一チームの人数を25人と明 確に定めクラス対抗フットボールの人気が次第に高まっていった。そのころラトガー ス大学でもプリンストン大学と全く同じような簡単なルールを使っていた。二つの大 学は地域的にも近く、また同じゲームをやっているという事実があったため、必然的 に両校の間に相対する機会が訪れた。かくしてアメリカン・フットボール界における 画期的な拳として最初の大学対抗試合が到来したのである。
 その日は1869年11月6日、場所はニュージャージー州、ニューブランスウィックに あるラトガース大学の校庭であった。試合はプリンストン大学のガンメル主将がラト ガース大学のレジット主将に挑戦して開かれることとなった。試合のルールはロンド ン・フットボール協会の修正案を採用し、一チーム25名、ボールを手で持つことを禁 じ、ラトガース側の要請によってフリー・キックを除いた。両ゴール・ポストの距離 は25フィート、6ゴールを先取した方が勝となった。
 ラトガースの学校新聞”タルガム”の報道によると「プリンストン大学の25選手は 多数の応援団とともに朝の汽車でニューブランスウィックに到着し、試合見物の列は 大学通りから延々100ヤードもつづいた。両軍選手の体格を比べてみると、プリンス トン大学の方が優勢で背も高く、筋骨隆々としているのに対し、ラトガース大学の方 は背も低く軽量であった」。霜の下りたその日の午後、試合はプリンストン大学のキ ック・オフによって開始された。寒風もものかわ約200人の見物がつめかけ、ある者 は自分の四輪馬車から、また中には木の塀の上に座を占める者もあった。試合の最中 、2人の選手がボールを懸命に追ってそのもろい塀の所に走りこんできたので、塀は こわれ、上で見ていた人は地面に転げ落ちた。
 両チームはともにユニフォームを着けず、選手はそれぞれ上衣とチョッキをつけて 試合に臨んだ。ラトガース大学の中の数人は真っ赤なターバンを巻き、また一人の選 手は真っ赤なジャージを着ていた。
 試合は結局、6−4でラトガース大学が勝った。最初のゴールはラトガース大学が記 録したが、これすなわち大学対抗の最初の得点であった。両チームは4−4のタイで試 合を運び、そのあとラトガース大学が2点を入れて勝った。途中でラトガース大学の 一選手が誤って味方のゴールに蹴りこみ、プリンストン大学に1点を献上したが、大 学対抗の歴史で、ミス・キックをするという事態が早くもこの最初の試合で演ぜられ たというのは面白い。この試合で大学のエールというものが初めて聞かれ、プリンス トンの選手がしきりと元気な声を出していたが、逆にそのために消耗して敗れた。こ のエールはニューヨークの七連隊が1861年、南北戦争に動員された時に、その兵隊が 案出したものに由来する。
 一週間後に両チームはプリンストンのカノヴァ・フィールドで二回目のゲームを行 った。試合中にボールの空気が抜けると両軍選手は交互にふくらませて続行したとい う。この試合のプリンストン大学は選手と応援団が終始物凄い雄叫びをつづけてラト ガース大学を威嚇し、結局8−0で前回の雪辱をとげた。この時の応援団のエールが、 フットボールにおけるチアリング(cheering)の習慣の始まりであり、その後次第に 現在の華麗な組織的応援(fancy yells)に進展していった。その一週間後に決勝戦 が行われる予定であったが、騒動を予測した大学当局によって禁止された。
 このプリンストン−ラトガースの対抗戦にまつわる奇妙な事実が一つある。第一回 戦の審判をしたニュージャージー州、フレミントンのレーンという人は両大学の決闘 を見るためにだけ生存しつづけたような人であった。ラトガース大学は第一回戦に勝 って以後、久しく敗戦を重ねてきたが、その後時代は移って1938年11月5日、69年の 歳月を経て20−18で二度目の勝利を博することができた。この対抗戦をずっと見つづ けて、この時レーンは齢87に達していたが、この試合を見てから数日を出でずして不 帰の客となった。誠に学生時代、その眼でプリンストン大学を破ったのを見て以来、 その後二度目のラトガース大学の勝利を見るためだけに生きていたような人であった。
 1867年12月、ニューヨークのマッティワンに住むアルデンがフットボールのカバー を作って特許を取った。空気袋はゴム製でキャンパスを使って伸ばすことができた。

 7 組織化への移行


 プリンストン、ラトガース両大学による最初の2ゲームの内容は詳しく四方に喧伝 され、大西洋沿岸の大学の間で大いに興味をそそった。そしてそれまでの比較的緩慢 な発展段階から脱して、1870年以後のフットボールは急速な発達を示し、組織化への 方向へと進む傾向が増大した。1868年初頭にフットボール・クラブを構成したプリン ストン大学では対ラトガース戦のあと、1871年10月にいよいよ組織的な協会を作って ルールを制定した。翌1872年10月にはエール大学も英国のラグビー校出身のシャーフ を代表として協会を作った。同じ年にコロンビア大学、翌1873年にはコーネル大学が 協会を作り、互いに対抗試合を行うようになった。その間の試合としてはプリンスト ン大学4−1ラトガース大学、エール大学3−0コロンビア大学、ラトガース大学6−3コ ロンビア大学などがあったが、いずれも明らかにサッカーであった。1872年のエール −コロンビア戦では4,000人の聴衆を集め、25セントの入場料を取っている。そのあ と1877年ごろまでにニューヨーク市立大学、ニューヨーク大学、ペンシルヴァニア大 学などにも拡がっていった。

 8 ボストン・ゲーム


 ハーバード大学でも1872年12月にクラス対抗のため協会を作ったが、その一年ほど 前から、他の諸大学の行うサッカー形式のフットボールとは違うゲームをやっていた 。サッカー形式のものが、手の使用を禁じたのに反し、ハーバード大学のやるボスト ン・ゲーム(Boston Game)では手を使ってボールを拾うことができ、ボールを持っ た者が追われた場合、そのまま持って走ることができた。このルールの違いがあるた め、1874年には各大学から試合を拒否され、その結果としてカナダのマックギル大学 と対戦する運命となった。そしてこの対戦がアメリカにおけるフットボールを一変せ しめる歴史的な転換期となったのである。

 9 最初のルール起草


 1873年の秋、エール、コロンビア、プリンストン及びラトガースの四大学はニュー ヨークの五番街ホテルにそれぞれの代表を送り、アメリカにおける最初の大学対抗ル ールを制定し、フットボール大学協会(Intercollegiate Association for Football )を組織した。そのルールはロンドン・フットボール協会のルールと、エール、プリ ンストン両大学の協会ルールをそれぞれ検討、修正したものであり、一チームの人数 は25人から20人となった。ボストン・ゲームをやるハーバード大学も招待を受けてい たが、ルールに差違があるためにこれを断り、翌年のマックギル大学との一戦を迎え る運命となった。この時ハーバード大学が招待を受諾してサッカー形式のフットボー ルを採用していたなら、アメリカン・フットボールの前途はどうなっていたか判らない。  新ルールのもとにエール大学はハミルトン・パークで三試合を行うこととなり、緒 戦のプリンストン大学には3−0で敗退、つぎのラトガース大学には3−0で勝ったが、 コロンビア大学との試合は相手の棄権で行われなかった。そこでエール大学は英国か らやってきたイートン・クラブと三度目のゲームを交え2−1で勝ったが、これがアメ リカにおける最初の国際フットボール試合である。イートンクラブは一チーム11名だ ったのでエール大学もこれにならい、その時以後エール大学のフットボールはずっと 11人でやるようになった。このこともまた極めて重要であった。




第三章 ラグビーの魅力


 ボストン・ゲームをただひとり固執したハーバード大学は運命の絆に導かれて、1874年カナダのマックギル大学とラグビー・ルールで対戦することとなった。そしてこのことが契機となり、サッカーよりも激しい体当たりの動作を合法とするこのゲームは忽ちのうちに東部の大学の間に魅力を持たれるようになった。そして1876年に大学フットボール協会(Intercollegiate Football Association)が設立され、サッカーよりもむしろラグビーを採るとの明確な方途が定まった。矢は弦を離れ、この転換によって現在のアメリカン・フットボールに至る巨歩が踏み出されたわけである。

 1 最初のアメリカン・フットボール


 アメリカン・フットボールにとって1874年は記憶さるべき年である。ハーバード大学はルールの相違があるために他校との対戦の機会に恵まれなかったが、突然カナダのモントリオールにあるマックギル大学から試合の申し込みを受けたので、大喜びでこれを受諾した。春の一日、両チームはケンブリッジで相会したが、マックギル大学の方はラグビー・ルールであり、対するハーバード大学のボストン・ルールでは、ボールを持って走れるのはただ一人だけで、そのほとんどの局面はサッカー流のゲームであった。そこで最初の試合はハーバード大学のルールでやり、翌日の二試合目はマックギル大学のルールで戦うことになった。試合は最初が3〜0でハーバード大学の勝、第二試合は半時間ずつ三つのセクションで行なわれ、0〜0の引分けに終った。マックギル大学のルールはラグビー・フットボール連合のルールを修正したものであり、英国のラグビーがゴールだけを得点とするのに対し、タッチ・ダウンもゴールと同様、得点に加えるようになっていた。この試合がアメリカにおいて行なわれた最初の学校対抗ラグビーである。その秋三度目の試合が今 度はモントリオールで行われ、3TD〜0でハーバード大学が勝った。

 2 エール大学共鳴す


 初めてラグビーに接したハーバード大学にとってそのゲームは神秘的な、全く未知のものであった。しかしその精神、その内容にはアメリカの青年を魅了して止まぬものがあったため、ハーバード大学はキッキング・ゲームを捨ててこのラグビーに踏み切ろうと決意した。そしてこのゲームを熱心に拡げようとして、まずエール大学に試合を申し込んだ。両校の代表がマサチューセッツ州スプリングフィールドに集まり、ハーバード大学が一チーム15名で、ラグビー・ルールを加味することを条件としたのに対してエール大学が同意したため、ここに総ゆるフットボール対抗の中で最高の存在となったエール・ハーバード戦がその歴史的な幕を開いた。
 試合は1875年11月13日、ニューヘブンのハミルトン・パークで行なわれ、前年の対マックギル戦で経験を積んだハーバード大学が4〜0で勝った。聴衆は2,000人、入場料は50セントであった。ハーバード大学の応援に150人の学生がボストンから押しかけたのも当時としては珍しいことであった。エール大学は灰色のズボンと青いシャツ、それに黄色い帽子をかぶり、ハーバード大学は深紅色のシャツとストッキング、それに膝ズボンをつけたが、両軍ともにユニフォームをまとったのは大学対抗として最初のことであった。エール大学にとってラグビーは全く奇異のゲームであったわけだが、彼らもこれに傾倒し、1876年、ラグビー採用へと踏み切った。

 3 プリンストン大学の貢献


 最初のエール・ハーバード戦を見ていた聴衆の中にプリンストン大学のドッジとポッターがいた。二人はこのラグビーゲームにすっかり魅せられ、プリンストンに帰ってこれを伝えようと図った。最初学校の機運は1873年のサッカー・ルールを固執していたが、二人が説得にこれ努めたすえ、1876年11月2日、まずプリンストン大学においてラグビーを採用すること、ついでハーバード、エール、コロンビアの三大学に呼びかけてこのゲームを行うためのルールを制定すべく集会を開くことを決議した。三大学に送られた招待状には”現在各大学の行っているラグビー・ルールを調整し、互いに同一の、そして満足すべき基礎にもとづくフットボールを為し得るようなルールを確立するため”との趣旨が述べられ、大学フットボール協会設立の是非を審議する必要を訴えていた。

 4 ラグビー採択


 集会は1876年11月26日、マサチューセッツ州スプリングフィールドのマサーソイト館で開かれ、四大学から二人ずつの代表が参加した。そして大学フットボール協会を設立するとともに、ラグビー連合の”試合はゴールの多い方をもって勝とする”というルールに変更を加え”試合はTDの数によって決まり、1ゴールは4TDに等しい。タイの場合にはTDからのゴール・キックが4TDに優先する”という修正案を採択した。一方、競技人員はエール大学の11人案に反してラグビー連合の規則通り15人と決まった。エール大学のベーカー主将はこの両件に対して異議をとなえ協会に入ることを拒んだが、年々会議には代表を送り、漸く1879年に至って協会に参加した。かくしてアメリカ独立百年祭の記念すべきこの年、サイは投げられ、ボールを持って走り、タックルを許すという動きを認めることによって、以後アメリカン・フットボールへ徐々に発展していく門が開かれた。
 その他、競技時間は45分ハーフとしてその間に10分の休憩時間を設けること、フィールドの大きさをタテ140ヤード、ヨコ70ヤードとすること、審判としてレフェリー1人のほかに両チームから1人ずつのジャッジを出すことなどを決めた。
 斬界の先達スタッグ(Alonzo Stagg)はアメリカン・フットボールの基礎ともいうべきラグビーの採用に関連して、ハーバード、プリンストン、エール三大学の尽した貢献を「ハーバード大学は1874年にラグビーを採用するや一貫してそのプレーをつづけた功績、プリンストン大学は最初の会議を招集する労を取り、その結果、協会の設立となったこと、また均一のルールを採用するに至らしめた功績、さらにエール大学の功は選手の数を11人から15人とする案に反対し、1880年ついにその主張通りになる端緒を開いた点にある」と述べている。

 5 11人制フットボール


 スプリングフィールドの集会に先立つ5日前にエール大学はハーバード大学と対戦して1〜0で勝った。試合はエール大学の提案した11人制とTDを得点にしないというルールが認められた。この最初の11人制ラグビーに関する詳しい記述から当時の模様を推測することができる。
 ライン・アップの構成は現在のライン・メンに当る6人のラッシャーズが相手の6人と互いに相対してスクラメージ(1878年にスクリメージと変った)の前の壁を作り、その外側や後方はハーフ・テンズ(half tends 現在のQB)が動いてラッシャーズの間の争いから出てくるボールを待ち受けていた。ボールは最初のキック・オフの時以外はスクラムでプレーされ、二つのラッシュラインズの間に置かれたボールを各ラッシャーズが争って足でハーフ・テンズに送ろうと努めた。現在のHBとFBに当るテンズ(tends)はずっと深い位置でプレーしていた。スクラムからのボールを最初に取った者は後方または外側にトスしてランかキックに移ったが、相手のタックルを避けるためラトラル・パスとキックが大いに強調された。
 エール大学はこの試合の数日前に初めてハーバード大学から正規のラグビー・ボールを入手したが、その卵型のボールのどこを蹴るべきかについて激しい議論を闘わせたという。彼らの練習はグラウンドで午後1時間、夜9時に体育館で3マイルのランニングを行うという激しいものであり、粘り強さとタックリングの2点においてハーバード大学の技巧を制することができた。

 6 初期形成期の背景


 協会の設立がラグビーへ踏み切った大きなターニング・ポイントであることは間違いないが、1880年以後の著るしい充実ぶりに比べると、それ以前のこの時期は古い制度の時代であった。練習計画、コーチングにも専門的な配慮がなされず、マネージメントは完全に学生自身がやっていた。当時の競技の取扱いや慣習がいわゆるラグビー精神に影響され、識不識にかかわらず英国のケンブリッジ、オックスフォードなどに似ていた点は十分認められるところである。しかしアメリカン・フットボールの初期形成期として、組織は不完全であり用具は不足しがちであったが、選手たちは次第にフットボールに対する関心と意欲を増してゆき、しかも観客は陸続としてその数を増してフットボール熱に拍車を掛けていった。初期のフットボールは特にゲームを楽しむという社交的な要素を含んでいたため、試合ごとに両チーム出席のもとに昼食をともにし、試合終了後は晩餐をともにするという具合で和気藹々たる雰囲気に満ちていた。しかしゲームが次第次第に激しい闘いの内容を示し始めた点は否めず、ひいては次の時代の大発展とともに数々の弊害、非難を予見させるものをはらんでいた。




第四章 アメリカン・フットボールへの移行


 大学フットボール協会は設立の年から年々一回乃至それ以上の会議を開いていたが、この会議はすべて学生の代表によって組織され、参加選手の資格を問題とするよりもルールの協定を取扱っていた。1881年に前年度のエール大学の卒業生であるキャンプ(Walter Camp)がこの会議に出席するようになり、以後は卒業生も会議の要員としてフットボールの発展に力を籍した。”アメリカン・フットボールの父”といわれるキャンプはこの会議を年々主宰し、アメリカン・フットボールを独自の域に引き上げるための数々の重要なルール制定を指導した。その中にはスクリメージの採用、ダウンと獲得ヤードの制度確立、合理的な得点数の決定などが含まれている。他面競技が次第に拡大するとともに恐ろしいマス・プレー(mass play)が姿を現わし始め、ゲームは粗暴極まりないものとなって数々の問題を提供した。ために1885年、ハーバード大学がフットボールを二年間禁止するなど、多少学校当局の関心が見られるようになった。

 1 スクリメージの採用と11人案の実現


 1880年に極めて影響力の大きい変更が行われた。その一つはエール大学が長い間主張しつづけていた一チーム11人案の実現であり、いま一つはラグビー式スクラムを廃し、近代スクリメージを採用することによってボール保持の原則を確立したことである。
 従来のラグビー・スクラムではボールの所有がどちらのチームにあるのか判然とせず、従ってボールをプレーに移し、つづいて起こる戦略を意識的・能動的に準備する権利もなかった。これに対しキャンプの作ったスクリメージ案は、ボールをつねに一方のセンターの所有下におき、センターだけがスナップ・バックでボールをプレーに移すことができた。そしてセンターからのスナップを最初に受け取るQBがここに出現し、ボールを自由にコントロールできる攻撃チームは進んでプレーを組み立てることができ、QBのシグナルの使用によってよりよきチーム・プレーを可能ならしめた。
 選手の数を15人から11人に減らすさい、この11人の配置の方法が大きな課題となった。そしてハーバード大学のライン7名、HB3名、FB1名とし、HBのうち1人が交互にQBとなる案、プリンストン大学のライン6名、QB1名、HB2名、FB2名という案などが提示されたが、エール大学はライン7名、QB1名、HB2名、FB1名という配置案を出し、これが徐々に支配的なものとなっていった。
 また1870年代の終りごろ、ラインの各位置の名称をどうするかという問題が起こった。ラインの一番端の位置は最初から英国のラグビー式にエンド・ラッシュ(end rush)と呼ばれたが、その隣りはネックスト・ツ・エンド(next to end)、三番目はネックスト・ツ・センター(next to center)、中央の者は勿論センターと命名された。しかしネックスト・ツ・エンドの位置にある者が、ラインの中で他の誰よりも多くタックルをするということが判ると、その選手はタックラーとして名を知られるようになり、やがてその名称もタックル(Tackle)と変わった。同じようにセンターが足でボールをスナップ・バックする時に、ネックスト・ツ・センターがセンターを支えて護衛していることに気がつき、それ以後その位置の名称もガード(Guard)と呼ばれるようになった。
 他の変更としてはフィールドの大きさが140ヤード〜70ヤードから110ヤード〜53ヤードとなり、ゴールから25ヤードの地点に十字の印がつけられ、キック・オフはフィールドの中央から行われるようになった。

 2 ダウンの制度確立


 1882年になるとダウンの方法が確立して、さらに大きな進歩をとげたが、これが近代フットボールの端緒であるといってよい。1880年に作られたスクリメージによるボール保持の原則は攻撃チームの戦術面に大きな力を与えたが、ボールの保持チームには何らダウン数の制限もなく、また獲得すべきヤード数に関する規定もなくて、ただパントか、フィールド・ゴールの使用によってボールを交換したものであった。
 当時の習慣として試合がタイの場合には、前年の勝者にそのまま勝利を授けるということになっていたが、その場合のタイはそのまま勝利を意味するものであった。1880年のエール・プリンストン戦で、プリンストン大学のロニー主将は敢て試合を引分に終らせるためボールを蹴らずに、ただ莫然とボールを持ちつづけようとし、翌1881年にもトスに勝ったプリンストン大学は前年同様に、ボールを一度も蹴らずにずっとスクリメージをつづけ、得点はなかったが、前半ずっとボールを放さなかった。これに対抗したエール大学も後半ずっとボールを保持しつづけ、互いに無得点のまま試合を終った。この極端な封鎖戦術は聴衆に嫌がられて次第に非難の的となり、これにあきたらずとする気持ちからダウンの設立が導かれた。
 やがて1882年の大学会議において「ダウンと獲得すべきヤード数」の有名なルールが採用され、改革の手が打たれた。このルールは「3回の連続的な攻撃ダウンのうちに5ヤード前進していないか、または10ヤード後退していない場合は最後のダウンの地点で相手にボールを渡す」というものであり、この革命的なルールに従ってボールは互いに交換され、攻守を力に応じて分担するようになった。これ以来フィールドには5ヤードごとの白い線がつけられ、グリディロン(gridiron)という名が一般的なものとなっていった。  5ヤード・ルールの設定はゲームの戦術研究、ひいてはフットボールの発達を大いに助長させたが、この制限距離獲得の手段としてこの時代から、従来の軽量敏捷な選手に代って強力な巨人を選ぶようになってきた。1882年のエール大学は、当時としては想像もつかぬ重量チームとして姿を現わし、短い強力なラッシュによるプレーを発達させた。このシステムが大いに功を奏したので、翌年はほとんどの学校がこれにならい、こうしてモダーン・ランニング・アタックの先鞭をつけるとともに、やがて問題化した猛烈なマス・プレーの発端ともなった。

 3 得点数の決定


 1883年にいま一つの重要な変更が行なわれたが、これを紹介したのもキャンプであった。それはゴール、タッチダウン、セフティに関する得点数の問題であった。これは前年のハーバード・プリンストン戦で、両校が互いに勝者であるといって激しい論争を巻き起こした事件に由来する。
 その試合はハーバード大学がまずタッチダウンを記録し、トライをミスしたが、そのあとでゴール・フロム・フィールドを成功させた。一方プリンストン大学はタッチダウンをし、引きつづき名手ハクザールがゴール・オン・ザ・トライ(goal on the try)を成功した。そこで両チームは互いに自分の方のゴールが優れていると主張してともに勝利を叫んだ。レフェリーをしていたエール大学のワトソンはハーバード大学の勝を認めたが、プリンストン大学はこの判定を不服とし、数年間は自ら勝者だといいつづけた。
 当時の得点法は数字的なシステムではなく、プレーとプレーのバランスを考えて作られたものであった。そのためゴール・フロム・フィールドはタッチ・ダウンよりも上位だが、4TDはゴール・フロム・フィールドより優先するという具合であり、勝ち敗けがセフティに関する時には4セフティ少ない方をもって勝とした。このシステムは実際面から見て完全なものでなく、納得しかねる面を多分に持っていたため、勝敗をめぐってしばしば喧嘩口論のタネとなった。そこでキャンプは1883年10月17日の会議で明確な得点方式を紹介し、得点となるプレーに対して与えられる基本的な評価はセフティ1点、タッチ・ダウン2点、ゴール・フロム・ア・トライ4点、ゴール・フロム・フィールド5点とした。1884年にはこの得点法はまた変更され、タッチ・ダウン4点、ゴール・アフタ・タッチ・ダウン2点、セフティ2点となった。
 同じ1883年、これまで両チームから出ていたジャッジが廃止され、レフェリーがただ一人でゲームを運営するようになった。それまでのジャッジは互いに自チームを積極的に弁護する義務を担い、ゲームに対する知識よりも議論をする能力によって選ばれたというほど徹底したものであったため、レフェリーはプレーの運行を司るとともに、両ジャッジの意見の不統一を調整するのに大いに悩まされたものであった。

 4 Vトリック及び援護走者の出現


 アメリカン・フットボールの持つ特徴の中で、援護走者(interference)やブロッキング(blocking)ほど判然としたものはない。1884年にプリンストン及びリハイ(Lehigh)の両校でVトリックなるマス・プレーが初めて使用され、また援護走者がアメリカン・フットボールの一局面となって姿を現わした。
 Vトリックまたはウェッジ(wedge)と呼ばれるマス・プレーはプリンストン大学のQBホッジが創始し、同じころリハイ大学のロブソンもこれらを工夫したといわれる。プリンストン大学はこのプレーを対ペンシルヴァニア戦の後半で使った。Vトリックというのは7人のラインをがっちりしたV型の集団とし、ランナーを内側に入れた逆V字の形を取って、集団の威力でランナーを護り、大きな前進を企図したものである。このプレーは物凄い威力をみせて一躍タッチ・ダウンを取ったが、しかしその時は一時的なシフトに過ぎないと考えられ、大した考慮も払われなかった。その後プリンストン大学は4年後の対エール戦後半のオープニング・プレーとして、再びVトリックを使用した。この機械的なV型攻撃は以後今日のキック・オフと同様、オープニング・プレーの決まった形としてさらに4年間つづけられた。
 援護走者を始めて使用したのもプリンストン大学であり、最初はガーディング(guarding)という名で呼ばれていた。1879年プリンストン大学は対ハーバード戦で、ボール保持者を護るために二人の選手を左右の真横においた。レフェリーをしていたキャンプ(W. Camp)はこれを反則だと警告したが、彼にも明確な宣告を下す自信はなかったようであり、そのシーズン末期にはエール大学でも同じプレーを使った。
 このブロック戦術は大方のチームの賛意を受けたが、1884年プリンストン大学は思い切ってボール保持者の前に援護走者をおいた。そしてこれにならった他の大学でも同じ形を取って対抗するようになり、ラグビー式のオフサイド・ルールは事実上ここに撤廃されることになった(ルールで実際に廃止されたのは1906年である)。それまでボール保持者は、専ら個人技だけを頼りに勝手にプレーしていたものだが、援護走者の出現があってから、これを利用して全体の中でプレーするようになり、援護走者が攻撃の要諦として次第に重要なウエイトを占めていくようになった。

 5 激しい競技内容と教授会の態度


 当時のゲーム内容について、ハイズマンがスポーツ百科事典(The Encyclopedia of Sports)に詳述している。−−当時の選手は週に二回、水曜と土曜にゲームをしていたから、文字通り鉄の如き頑丈な身体でなければならなかった。一度ゲームが始まると実際に負傷するか、また少なくともケガだという口実でもなければ試合場を離れることは出来なかった。従って主将が誰かを交代させようと思えば「腕をへし折るなりどうなりしろ」と小声でいったものである。危険防止のため今日使用しているヘルメットとかパッドの類はまだ姿を見せず、たまたま自家製のパッドを使用しようものなら、卑怯者呼ばわりされたものである。頭を保護するものは髪の毛だけで、選手は6月の始めから髪を長く伸ばして準備をした。神学生と医学生は顎髭をのばすことも許されていたので、彼らの容貌はゴリラのそれの如くであったといわれる。ジャージ、ショート・パンツなどが普く用いられるようになり、ジャージの上にキャンパス付のジャケツを着ていた。ラインメンは攻守ともまっすぐに突っ立って相対し、互いに狂ったごとくなぐり合いを演じて相手を倒そうとしたものであり、それに対 する罰則は全然なかった。従って当時のラインメンは文字通り物凄いボクサーであり、スラッガーでなければならなかったわけである。タックルは腰及び腰の上に制限するというルールはあったが、技術的な研究は全然なされずただ実戦に臨んでがむしゃらに首を持ってねじり倒すといった類のものであった。
 こうしてフットボールは若人の激情をそのまま発揮する肉体の闘争となり、ややもすれば学生スポーツとしての正しい発達が阻害される有様であった。1885年ハーバード大学の教授会は競技委員会の勧告により、プレーが乱暴であるとの理由でフットボールを2年間禁止した。その他の大学でもフットボールの統制に関して多少関心は持たれてはいたが、学校当局の態度は概ねスポーツに対して黙認または放任主義的であったように思われる。

 6 各地への拡大


初期のフットボール界をリードしたエール、プリンストン、ハーバード、コロンビアなどの諸大学のほか、1870年代末にはフットボールは数々の大学に拡大していった。スチーブンス、タフツ、ニューヨーク市立大学、ブラウン、アマースト、ダートマスなど、北東部の大学がま ずフットボールを取り上げたほか、南部ではワシントン・アンド・リー大学とヴァージニア陸軍大学が1877年に初めてゲームをやった。中西部では1878年にミシガン大学とラシーン大学が初めてチームを作り、ミシガン大学は1881年チームを東部に送ってハーバード、プリンストン、エールの諸大学とプレーした。こうしてフットボールの大衆的な人気はますます増大して行き、さらに西部のコーネル、フォーダム、ミネソタ、パーデュー、ノートルダム、インディアナ、サザーン・カリフォルニア、カリフォルニアなど、後年の強力チームもこのころに初めてチームを作り上げた。




第五章 飛躍的発展期に入る


 スクリメージの設定、ダウンと獲得ヤード制の採用という決定的な措置によって独特の境地に踏み入ったアメリカン・フットボールは、さらに諸々の社会的背景に恵まれて伸張一路をたどっていった。1885年にフットボールの粗暴さを抑圧しようという多少の動きがあったにもかかわらず、翌1886年以後の20年間は種々の曲節を織りこみつつ飛躍的な発展をみせてゲームの基礎が確固たるものとなった時代である。幾つかの限定的なルールの変更がゲームの粗さを助長することになり、それに対する抑制案が決められると、また違った面で執拗に勝利を追求するといった具合で、フットボールはまさに肉体闘争の極点を見せるようになっていった。そして1906年に至ってフットボールは全面廃止か、しからずんば危険防止のための恒久的改革を迫られ、新らしい歴史の転換期に立つこととなった。一方ゲームの激化、対抗意識の増大は教育面、アマ規定の面からみて数々の不正、悪徳をフットボール界にもたらし、世論の反響、教授会の統制が漸く緒についたが、これはのちに述べる。

 1 急激な発展の要因


 南北戦争の回復を契機として強力なアメリカの国家主義が発生し、1870年ごろから社会の近代化が促進されたためにスポーツの面でも急激な発展に至る道が開けた。その要因として考えられる第一のものは国民各層にわたっての余暇の増大である。1869年、大陸横断鉄道が完成したのを始め、交通、通信各方面での著るしい発達は勢い農業、工業の異常な発展を導き、植民時代の苦しい生活環境から比べると物質的な労苦は軽減され、各層での労働条件の改善と相まって余暇の増大をみることとなった。この余暇善用の一方面としてスポーツ、レクリエーションに対する関心が助長された。要因の第二は新聞のバック・アップである。それまで新聞に取り挙げられたスポーツに関する記事といえば専らプロ・スポーツが主であり、これが怠け者とか道徳の低い連中とスポーツを結びつける原因となり、競技活動に悪評を立てる傾向があらわれたものであった。そうした新聞紙上に近代的なスポーツ欄を設けた最初の人はハースト(W. R. Hearst)であり、彼は1895年にニューヨーク・ジャーナル(New York Journal)紙を買収し、他紙の2倍から4倍にまでスポ ーツ欄を拡張し、新聞に全段抜きの大見出しを用い、漫画や写真をのせ、有名な運動選手を代作記事の作製のために雇ったりした。こうした斬新なマス・コミュニケーションの在り方はスポーツ・ファン吸収に与って大きな力があった。第三にスポーツに要する設備、用具の設備拡充が挙げられる。この時代はアメリカの遊戯振興運動が次第に具体的な内容を伴うようになり、各地にプレイグラウンドが設置され、練習のための用具、設備も次第に充実していった。第四に社会の近代化に伴ない教育の分野は拡張され、それ以前の智的発達のみならず道徳教育の必要、体育に対する関心がいや増し、スポーツの存在価値を著るしく高めたということが考えられる。

 2 タックルとブロッキングのルール制定


 1888年3月3日の会議で”タックリング(tackling)は腰から下、膝のところまで”と規定するルールの制定があった。それは一見簡単そのもののような変更ではあるが、スクリメージの採用、ダウンの確立、援護走者の招介などとともに極めて重要な改革であった。低いタックルはボール保持者の防衛という観点からみた場合、攻撃の展開に勢い著るしい変化をもたらした。ラインは互いに接近し、バックスも現在のフォーメイションにかなり近いほど接近して動くようになり、ここに新らしい時代が開始された。
 いま一つ、1888年に重大なルールの変更があり”ラインメンがブロッキングをする時に腕を拡げて行うこと”を禁じた。しかし正確にいえばこの改革案は無意味である。何となれば腕を拡げないブロッキング、いなブロッキングそのものすらルールで認めたものではなかったのである。しかるに事実上は1884年以来、援護走者がゲームの局面に入りこんでいて、ブロッキングの使用によって受動的にボール保持者の前進を助け、結構その目的を果たしていたのである。そしてこの”腕を拡げたブロッキングの禁止案”によってその動作は明確に合法的なものとなり、攻撃面にますます独自の発展をみせるようになった。腕を拡げることを禁じられたラインメンは両腕を低く構えるようになったため、ラインは互いに接近して動くようになり、低いタックルの採用と相呼応することとなった。

 3 マス・プレーの復活


 低いタックル及びブロッキングの合法化と接近戦法(close formation)の採用に伴ない、数年前のVトリックにさらに惰性をかけた物凄いマス・プレーの時代が始まり、荒っぽさと危険はさらに増大した。その先頭を切ったのはエール大学を出たスタッグが1890年に考案したエンズ・バック・フォーメイション(ends back formation)である。スタッグは最初これをスプリングフィールドYMCAカレッジで教え、以後はシカゴ大学で使用した。このエンズ・バックはラインの両端にいるエンドをバックフィールドにさがらせ、ライン各所を突破するランニング・プレーのさいに有効に働かせたものである。翌1891年にはスタッグはまたもやチームをがっちりした卵型に密集させ、その集団をぐるぐる回転させながら相手のラインを衛くマス・プレーを考案し、タートル・バック・システム(turtle back system)と呼ばれた。  エール大学と激しく対立していたハーバード大学は1892年にフライング・ウェッジ(flying wedge)という驚異的なマス・プレーを実行に移した。これはボールがプレーに移されるまでにウェッジをスタートさせると相手の勢力とぶつかるまでに相当の惰性をつけることができるというアイディアであった。その考案者はディランド(L. F. Deland)というチェスのうまい学生だが、彼自身フットボール経験が全く無いというのは面白い。ハーバード大学はこのアイディアに魅了され、1892年の夏、秘密裡にこの大戦略を練習し、ついに対エール戦後半に初めて使用した。そして翌年はこの猛威を認識したほとんどのチームがフライング・ウェッジを使ったため負傷者が続出し、大騒動のうちにシーズンを終了した。
 1893年、ペンシルヴァニア大学のコーチ、ウッドラフ(G. Woodruff)はあらゆる援護走者にフライングの原理を取り入れ(flying interference)またプリンストン大学はスタッグのエンズ・バックをさらに改良して覇権を得るなど、集団と集団の闘争は全くフットボールを目茶苦茶な様相に導き一般の人気を失う原因ともなった。最も粗暴さをみせたペンシルヴァニア・プリンストン戦の結果は以後1925年まで両者の交戦を阻止したくらいであった。この年ついに大学フットボール協会は二分する事態に追いこまれた。
 革命的なフライング・ウェッジというのはキック・オフ・プレーの時に用いられた。10人の選手が各5人ずつフィールド中央から30ヤード、40ヤード後方に位置し、ボールがプレーに移されるまでにスタートを起してフル・スピードでボールの示す一点に寄り集まっていくものであり、その集団がボールの地点に行きつくころには驚異的な威力を作っていた。当時のキック・オフには飛距離の規定がなく、センターがボールをチョンと蹴っただけで直ちに拾い上げて後方の味方にパスすることが許されていたところに、このフライング・ウェッジの可能性があった。またフライング・インタフェアランスの方はスクリメージにおいて攻撃力を増大することを狙ったものであり、早くスタートしたエンドとタックルがボールの出る瞬間には目指す相手に衝撃を加えるというものであり、両プレーとも守備側にとって極めて悲惨な結果を招かしめた。
 その間の激烈なフットボール戦場の模様を再びハイズマンから引用してみよう−−1人のボール保持者を前進させるために、他の者は先頭に立って相手を妨害するか、または後方から押して援助を与えた。守備側の者がボール保持者にタックルして倒そうとすれば攻撃側はボール保持者の腕、頭、毛、その他どこでも手に触れたところをつかんで反対に押し進めたものである。そのためボールを持って走るバックの中には旅行カバンの把手のようなものをジャケツの肩やズボンの腰の所に縫いつけたり、また金具で止めたりして仲間のつかみ易いようにしている者もあった。恐ろしい暴行のさなかでよくボール保持者の手足がバラバラにならなかったものである。

 4 改革案とマス・プレー


 1893年のシーズン終了後、ニューヨークの大学競技クラブは何らかの手を打つべき事態だと決意し、いわゆるビッグ・フォアのハーバード、エール、プリンストン、ペンシルヴァニアの諸大学に招請状を送り、新らしい規則委員会を作るよう要請した。4大学は1894年2月に集まり、協議の結果ルールを徹底的に修正することになった。修正案は第1にウェッジ、Vトリック、フライング・ウェッジなどを無効とし、さらに3人以上の選手がスクリメージから5ヤード以上後方でグループとなり、惰性をつけたマス・プレーを始めるのを禁じた。第2にボールを持たぬ相手に手を触れること禁じ、第3にキック・オフ・ボールは10ヤード以上飛ばねばならないと規定した。これらは攻守のバランスを適当に保つための当然の措置であった。その他、競技時間を前、後半35分ずつに短縮し、主審、副審のほかに線審をも加えて競技の正しい運行を図ろうとした。
 恐ろしい数種のマス・プレーが禁じられて危険防止に役立つかと思われたが、フットボールの戦術家たちはまたまたルールに抵触せぬマス・プレーの新機軸を考案して、さらにフットボールの激化をうながし危険度を緩和することを拒んだ。その新戦法はガード・バック・フォーメイション(guard back formation)及びタックル・バック・フォーメイション(tackle back formation)である。
 ガード・バックは1894年、ペンシルヴァニアのウッドラフ・コーチが案出したものである。ラインから3.5ヤードさがった両ガードはバックスを助けて恐ろしい破壊力を相手ライン各所に加えた。ガードの位置が丁度中央のライン突破にもよく、またオープン攻撃にも適切だったので従来のマス・プレーを上回る攻撃変化をみせ、フットボール界に物凄いセンセーションを巻き起した。ペンシルヴァニア大学はこのプレーを有効に使って1894年から1898年にかけて66戦65勝という快記録を樹立した。1894年、1895年と1896年の始めの8ゲームを入れて連続34勝し、そのあとラファエティ(Lafayette)大学に6−4で敗れたが、またそのシーズン6ゲームに勝ち、翌1897年は15ゲーム、1898年は10ゲームを勝ったのちハーバード大学に10−0で負けた。この5年間にペンシルヴァニア大学の挙げた総得点は1,965点であり、総失点はわずか126点というすばらしいものであった。
 一方のタックル・バックはガード・バックに影響されたミネソタ大学のコーチ、ウィリアムス(Harry Williams)博士が1990年に発明し、エール大学のキャンプ・コーチが完成したものであり、タックルのうち1人をライン後方にさげたものであった。

 5 協会の動揺と新勢力の台頭


 マス・プレーの新機軸が横行してフットボール界には依然一触即発の状態がつづいた。各大学の関係は決して満足すべきものでなく、一般大衆もマス・プレーをすべてなくすることを望んだ。1895年の春、エール大学のキャンプはプリンストン大学のモファット(Moffat)と語らい、ペンシルヴァニア、ハーバードの2大学をも交えて、現行の極めて危険なスポーツを救うための新らしい努力を試みた。キャンプはマス・プレーを完全に一掃する案を示してプリンストン大学の賛成を得たが、他の2大学はそれに反対した。それはこの両大学がガード・バックなどの新機軸を使って確固たる地位を築き上げていたのが決定的な理由であったようである。こうしてビッグ・フォアは分裂した。そして互いに別箇のルールでそれぞれのフットボールを行ったのである。
 1876年以来久しくフットボール界を牛耳ってきたビッグ・フォアの分裂は勢い他の地域に新勢力の台頭を促すこととなった。その最も顕著な勢力は中西部の大学連合であり、まず1895年、パデュー(Purdue)大学のスマート(Smart)総長の提案により、ミシガン、ウィスコンシン、ミネソタ、イリノイ、シカゴ、ノースウェスタン、パデューの7大学が集まってルールを協議し、1899年にアイオワとインディアナ、1912年にはオハイオ・ステートの各大学が加入して今日のビッグ・テン協議会を築き上げた。
 その協議会が最初に採用した改革案の中には新人選手に関する規定、選手生活を3年間に制限する規定などがあり、この二つは殆ど普遍的なものとして全米の標準となった。こうした協議会の特徴として教授会の競技統制を挙げることができ、それもまた全国的な共感を得る気配をみせていた。しかしながら古いビッグ・フォア、すなわちハーバード、エール、プリンストン、ペンシルヴァニアの4大学では教授会の発言権が次第に力を加えていったとはいえ、依然としてそのフットボールを動かすものは卒業生であり学生自身であった。
 新らしいビッグ・テンの台頭によってその牙城を侵触されつつあった古いビッグ・フォアは止むなく再びその和睦を図り、1896年夏に歩調をそろえて新らしい規約を作ることとした。その規約はマス・プレー禁止に関して結末をつけることを最大の眼目としたはずであったが、にも拘らず未だに決定的な措置は取られなかった。葬り去られたはずの、惰性を伴なうマス・プレー(mometum play)は微妙な字句の解釈からなお陰に陽にその機会を待っていた。そしてその現われがシフト・プレー(shift play)の流行を生み出す。その創案者はシカゴの天才スタッグであり、ウィリアムス博士のミネソタ・シフト、ペンシルヴァニアのコーチ、ハイズマンが作ったハイズマン・シフト、及びハーパー(J. Harper)のノートルダム・シフトなどがその代表であった。シフトの狙いはラインまたはバックフィールドの位置を変えるとともに、間髪を入れずにボールをプレーに移し、守備のバランスを崩そうとするところにあった。また一方の雄、プリンストン大学も回転縦隊戦法(revolving tandem)なるマス・プレーを編み出してフットボールの危険性は依然消え去らなかった。

 6 フットボール存廃の関頭に立つ


 フットボールの激化は一方においてその危険度を緩和する願いを種々のルール改正に託したものの、古いフットボールそのものが本質的にスリルを求め常軌を逸した肉体の闘争を渇望したため、1890年代の最盛期は深刻な自己矛盾に明け暮れする混頓たる一時期であったといえる。そして運命の年、1905年が到来した。
 1905年のシカゴ・トリビューン(Chicago Tribune)紙の編集によるとこのシーズンは18人の死者と159人の重軽傷者が出るという大災厄の年であった。シーズン最中のペンシルヴァニア大学対スワースモア(Swarthmore)大学の一戦でスワーモアの大黒柱、マックスウェル(Maxwell)に加えられた野蛮極まる暴行が新聞に取り上げられたことから、時の大統領ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)がついに態度を決めた。大統領はエール、ハーバード、プリンストン3大学の代表をホワイト、ハウスに招き、問題となるような総ゆる局面を改革してこのスポーツを安全にするよう警告し、その裏付けがみられぬ限り政令をもってフットボールを廃止する旨の最後通牒を発表した。
 反響は大きかった。コロンビア大学は独断でゲームを禁じ、カリフォルニア、スタンフォード両大学がラグビーに転向するなど、それぞれの動きもみられたが、ルール委員会は危険なプレーをすべて排除することによってフットボールの存続を図ることに決めた。第一回の会議はニューヨーク大学のマックラケン(Henry M. McCracken)名誉総長の招集により1905年12月9日、東部の13大学を集めて行なわれ、12月28日の二回目の会議には全国から62の大学が参加し、新たに7人のルール委員会を指名して従来の委員との合併を提案した。古い委員の代表はキャンプ(Walter Camp)であり、新らしいグループの代表はウェスト・ポイントのピアース(Palmar E. Pierce)大尉であったが、2人の努力と賢明なる指導によって新旧二つのものは1906年1月12日、アメリカ大学対抗フットボール委員会として合併された。また大学競技、とくにフットボールの健全化を図るためにアメリカ大学対抗競技協会(Intercollegiate Athletic Association of the United State)を12月末に組織 したが、これは5年後に現在の全米大学競技協会(National Collegiate Athletic Association 略称NCAA)と改称された。新らしい、そして全国的に統轄されたルール委員会はフットボール存続のための決定的な改革案を練り、古い”力こそ至上なれ”というフットボール観にピリオドを打つとともにモダーン・フットボールの門戸を開くこととなった。




第六章 フォワード・パス時代始まる


 1906年1月12日の会議によってフォワード・パスが公認された。これはスクリメージとダウンの制度がアメリカン・フットボールに確固たる形態を与えて以来、最大の影響力を及ぼしたものであった。このため、力のみに頼るマス・プレーに代って有機的スポーツとしてのフットボール時代が始まり、選手、観客、いずれにも多大の魅力を与えた。しかしルール制定によって一躍フォワード・パス時代が現出したわけではなく、なお暫くは旧態依然たる数年がつづいた。1913年、ウエスト・ポイントに於ける対アーミー戦でノートルダム大学が演じたすばらしいフォーワード・パスの妙味は全国的な反響を呼び、ここに漸くフォワード・パスへの実質的な眼が開かれるに至った。その意味でこのゲームの価値は1875年のハーバード・マックギル戦に匹敵するものであり、1913年をもって近代フットボールは始まるといってよい。

 1 改革案の根本精神


 フォワード・パスの公認がアメリカン・フットボールに強烈な影響を及ぼしたのはその後の歴史の流れによって導かれたものであり、1906年の会議に於ては数多くのルール変更のうちのほんの一項目というに止まった。そして変更の大部分のものはプレーの荒っぽさを少なくして選手の危険をなくし、同時にゲームを観衆にとってもっと親しみ易いものにするという意図でなされた。ルール委員会がルール変更に当って取った根本的な態度は
 (1) 選手にとってゲームより安全、かつ興味あるものとすること
 (2) ゲームを明らかによりオープンなものとすること
 (3) 体重によってゲームが左右される傾向を排し、スピードと敏捷性と頭脳的プレーにより大きな機会を与えること
 (4) より広範な戦術的可能性を提供し、軽量のチーム、小さな大学のチームにも真の機会を与えること
 (5) 審判技術の発達をうながし、ゲームに関するスポーツマンシップの標準を高くし、ルールを乱そうとする絶えざる誘惑をなくすこと
などであった。

 2 フォワード・パスのアイディア


 フォワード・パスが合法となったのは1906年だが、それ以前にゲーム中にフォワード・パスが使用された例として二つの場合が挙げられる。その第一は1876年のエール・プリンストン戦でエール大学のキャンプがタックルされた時に前方にいたトムプソン(O. Thompson)にボールを投げ、そのままトムプソンが走りつづけてTDを記録したといわれる。プリンストン大学はこれに抗議し、反則だとつめよったが、審判はその決定のためにコインを投げTDを許すことに決めた。第二の例はノースカロライナ大学とジョージア大学の試合でみられた。この試合でノースカロライナ大学のフルバックが前方にいたチームの者にボールを投げ、それが70ヤードに及ぶロング・ランとなってTDを記録した。ジョージアのコーチをしていたワーナー(G. Warner)が当然の如く反則だと抗議したが、審判はそのプレーを見ていなかったといってTDを認めた。たまたまこのゲームを見ていたハイズマンはこの規則違反のプレーこそゲームをオープンに展開し、プレーの荒っぽさをなくするために是非とも必要なたものだと判断し、数年後、彼によってフ ォワード・パス合法化のアイディアがルール委員会に提案された。  ハイズマンとともにネービーのダッシェル(P. Dashiell)大尉、ペンシルヴァニア大学のベル(John C. Bell)ミネソタ大学のウィリアム博士、セントルイス大学のコクム(E. Cochems)らもフォワード・パスを最初に提唱した人々であり、その発展に重要な役割を演じた。しかし彼らの意図は抑圧されたマス・プレーを和らげるための一手段としてのフォワード・パスを考えたに止まり、その出現がフットボール界に革命を導くことを予見することはできなかった。

 3 フォワード・パスの使用と初期の認識


 合法的となったフォワード・パスを初めてゲームに持ちこんだものについては二、三の説がある。しかし権威筋から最も妥当と認められているのはセントルイス大学のコーチ・コクムである。
 彼は1906年6月、チームをシカゴ北方のベンラ(Benlah)湖畔に連れていってパスの研究の緒についた。彼は楕円のボールの形から長軸に沿った7本の紐の部分を観察した結果、ボールの先端に一番近い2本の紐の間に指を置き、長軸に沿って手首をねじるようにして投げる方法を発見した。このやり方でロビンソン(Bred Robenon)をパーサーに仕込み、今日の方法と大差ない投げ方でロング・パスを投げる技術を教えた。ロビンソンはボールを強く、しかもレシーバーに正確に投げ、現在のパス攻撃スタイルの先鞭をつけた。彼がゲームで初めてフォワード・パスを投げたのは1906年9月の対キャロル(Carroll)戦であった。彼はオーバーハンドから長短自在の効果的なパスを投げて大きな大学をつぎつぎと破り、1906年の成績は全勝、総得点402点、失点わずか11という抜群のものであった。ロビンソンの投げたパスの資料として1906年11月3日の対カンサス戦で彼からシュナイダー(J. Schneider)に渡ったものの図解があり、それには”そのシーズン最長のパス…48ヤード”と見出しが ついている。
 1906年10月3日、コネチカット州のウェスレイヤン(Wesleyan)大学が対エール戦でオーバーハンドのフォワード・パスを初めて完成させたという説がある。このパスはモーア(Sammy Moore)からタッセル(I. Van Tassell)に投げ、18ヤードを得たといわれる。ウェスレイヤンのコーチ、ライター(H. R. Reiter)は1903年に、もとのカーリッスル・インディアン(Carlisle Indian)の選手からボールを回転させながら投げる方法を習い、フォワード・パスが合法となった年に早速これを使用したものだという。
 また一説としてエール大学の名選手、キルパトリック(John Reed Kilpatrick)がオーバーハンドでフォワード・パスを初めて投げたのは自分だと主張している。1907年秋の対プリンストン戦で、キックとみせてフォワード・パスを投げ、それでTDを記録したというが、時期的にはやはりその前年のセントルイス大学が先行するようである。
 東部の一流大学の中でフォワード・パスを最初に使用したのは1906年のエール大学である。彼らはその年のハーバード戦で、どんな攻撃を仕向けても失敗ばかりしていたのでとうとう、フォワード・パス使用を思いつき、ヴィーダー(P. L. Veeder)がフォーブス(R. W. Forbes)に30ヤードのパスを投げて一躍ゴール寸前にまで進み、つづくプレーでTDを挙げることができ、6〜0でハーバード大学を降した。
 ルールに取り上げられたフォワード・パスを各地のコーチ連が見逃すはずはなく、以上の諸校に見られたようにどのコーチも一様にフォワード・パスを使用しようとした事実はある。しかしその何れもが、フォワード・パスをもって攻撃の主武器とする決断はみせず、原則的にはパスの使用をほのめかすことによって守備側のバックフィールドを広く散開せしめ、攻撃を有利に展開することを図ったものであった。そうしたフォワード・パス軽視の観念は特に一流大学に強く逆に新興地域とみなされる中西部ではその点に於て東部に一歩先んじるものあった。シカゴ大学のコーチ・スタッグは早くも1906年には64のフォワード・パス攻撃型を作って効果をあげ、1907年、1908年には覇権を握っているが、そのアイディアは今日考えられるフォワード・パスのすべてを網羅しているといってよい。1907年にはミシガン大学のヨスト(F. Yost)カーリッスル大学のワーナー(Pop Warner)らも優秀なパスの威力を示した。

 4 改革案つづく……1906年


 1906年の会議でフォワード・パス合法化のほかに効果のあった変更は
 (1) ゲームの時間を70分から60分と短縮し、前後半30分に分けた
 (2) スクリメージのさい、攻防両チームの間に中立地帯(neutral zone)を設定してボールの幅だけ両チームを離れさせた
 (3) 3ダウンのうちに前進すべき距離を5ヤードから10ヤードとした
 (4) ラインマンがバックフィールドに下る時にはスクリメージより5ヤード以上後退しなければならない
 (5) ハードリング(hurdling)の禁止
などであるが、これらは何れもゲームの安全化を図って打ち出された改革である。このうち中立地帯の設定はゲームの粗暴性を除き、プレーの円滑を図るための最大の要素であった。それ以前のフットボールといえば両軍のラインメンがボールの中心線を通る仮想のスクリメージ・ライン上にひしめき合い、互にヒタイとヒタイ、足と足をくっつけて立ち、激しく口論し合い、猛烈にぶつかり合ってゲームの激化に拍車を掛けていた。この中立地帯の設定以来、攻撃側、守備側の両スクリメージ・ラインが確定し、”ボールがプレーに移されるまでに中立地帯を侵してはならない”というルールによって合理的なブロッキングがみられるに至り、危険緩和に大いに役立った。

 5 改革案つづく……1910年(キャンプ退陣)


 エール大学のキャンプはパスが初めて許された時にはそれを唱導したにも拘らず、やがてランニング・プレーのための戦略を紹介することに意を注いでフォワード・パスの排除を主張するようになった。この態度は東部の大学がフォワード・パスを軽視し、逆に中西部に於ては次第にパスが有力武器となりつつあったところに理由がありそうである。そしてキャンプのパス排除案はハーバード大学のホートン(Haughton)の称えるパス維持の立場と激しく対立したが、時勢はパスをさらに伸張させる方に味方した。こうして多年にわたってルール委員会を支配してきたキャンプの最高権力もついに終りをつげ、新たな勢力と交代する時期が来た。そして必然的にフォワード・パスを発展させ、マス・プレーを終らせるための種々の施策が取られた。
 (1) パス使用に関する制限規則は1910年から1912年に至って全く排除され、今日と同じくスクリメージの後方ならどんな所からも前方へパスを投げることができた。
 (2) パス・レシーバーを厳重に保護するルールが1910年に確立された。
 (3) ラインマンがバックフィールドに後退することを禁じ、攻撃側のスクリメージ・ラインはつねに7人必要であることを明確にした(1910年)そして手や身体を使ってランナーを押したり引っぱったりすることを禁じ、マス・プレー除去に強い反応を示した。

 6 改革案つづく……1912年(恒久策)


 フォワード・パスの合法化は1913年のアーミー・ノートルダム戦で実を結び、この年をもって近代フットボール発足の年ということができる。1906年の提案以後、1910年、1912年のルールの変更によってゲームの輪郭は今日の標準と大差ないものとなった。以後も年々、数多くの変更があって戦術的転針を促すことはあったが、根本的には1912年をもってフットボールの標準は確立されたということができる。その恒久案とは
 (1) 3ダウンで10ヤードの代りに、4ダウンとする
 (2) フィールドは110ヤードから100ヤードとなり、各ゴール・ラインの後に10ヤード幅のエンド・ゾーンが設けられ、エンド・ゾーン内で捕球したフォワード・パスは合法としてTDを認められた。それ以前はゴール・ラインを越えてパスを取るとタッチ・バックであった
 (3) フォワード・パスはスクリメージの後方ならどこからでも投げることができた。
 (4) キック・オフは55ヤード・ラインの代りに40ヤードに移った。
 (5) TDが5点から6点、フィールド・ゴールは4点から3点となった。
 以上のすべては恒久的な効果をもつ重要な変更であり、近代フットボールに至る画期的な要因として強く作用した。この恒久案を指導したのはキャンプの後継者としてルール委員会の主宰者となったダートマス大学のホール(Edward K. Hall)であった。

 7 アーミー・ノートルダム戦


 ルールによって支持されたフォワード・パスの発展に明確な形を与える端緒となったのは1913年のアーミー・ノートルダム戦であった。二流チームのノートルダム大学が驚嘆すべきフォワード・パスの冴えをみせて強大国アーミーを見事に撃破したこの事実はフォワード・パスに関する限り最もセンセーショナルな偉業であるといえる。このゲームはノートルダム大学をして無名の存在から一躍全国的な名声を得させるとともに、攻撃武器としてのフォワード・パスの位置を確立したものであった。
 ノートルダム大学の成功は新らしくコーチに就任したハーパー(J. Harper)の才能と、QBドレイス(Gus Dorais)エンドのロックン(Knute Rockne)主将の卓越した技術に追うところが多い。1913年の夏、ドレイスとロックンの二人はオハイオ州の避暑地であるセダーポイント(Cedar Point)で働いていたが、アーミーに対するかすかな自信でも植えつけるために余暇を利用してフォワード・パスの練習に励んだ。そしてシーズンに入るとともに両者のパス・コンビネーションが驚くべき域に達していることをアーミーは知らなかった。アーミーはオール・アメリカ級のスターをそろえ、選手はもとより観客のすべてはノートルダム大学をちょっとした練習相手くらいに考えていたようであった。しかしノートルダム大学はすべてをフォワード・パスに掛けるペースを崩さず、名手ドレイスの絶妙なパスワークはしばしばアーミーの守備陣を棒立ちにさせた。そして最初のTDはドレイス〜ロックンのコンビによる40ヤードのパスによって完成された。そのあとアーミーも巨大な力で押してきて2TDを返し、前半を終って得点はノートァ
襯瀬・唄〜13アーミーであった。後半アーミーはパスに備えてその守備陣型を変えたが、ドレイスは逆にパスとみせてランニング・プレーを効果的に使い始め、アーミーのラインを随所に破った。そして最後の切札であるパスの威力を要所に織りまぜながら着々と得点を重ねた。得点は35〜13、ノートルダム大学の実に見事な勝利であった。フォワード・パスは17回使用して14回の成功、パスによる獲得距離は243ヤード、5つのTDはすべてフォワード・パスの結果であった。こうしてアーミーの古い体当たり戦法は清新溌剌たるノートルダム大学のオープン・プレーに頭を垂れた。フォワード・パスはもう単なる実施可能の一部分というものではなく、攻撃の必須武器となったのである。

 8 空中戦時代へ


 アーミー・ノートルダム戦の予期せざる結果は従来以上にフットボールを流行させる要因となった。そして体重の少ない選手から成る小さな大学でもフォワード・パスの使用によって結構、大型チームと対抗できることを実証した。
 南西部ではオクラホマ大学の台頭が目につく。1914年、オクラホマ大学のコーチ、オーエン(Bennie Owen)は未経験者ぞろいのチームを指導するに当って、根本的にプレーのスタイルを変更し、フォワード・パスに全精力を注いだ。そしてそれまでどのチームも成し得なかったラン・パス均一化に成功し、従来の常識を上回るパス使用によって着々と成果を納めた。この年、オクラホマ大学は1マイルに及ぶパスを成功させ、TDパスは25回、そして9勝1引分という法外の成績を納めた。翌1915年、さらにパスの威力を伸ばしたオクラホマ大学は10勝全勝の記録でシーズンを終了し広く絶賛を博した。オクラホマ大学は毎試合平均30〜35回のパスを投げ、フォワード・パスによる獲得距離がいつもランを上回るという徹底したものであった。
 1915年のピッツバーグ大学も有名なワーナーの指導でフォワード・パスをマスターし、それまで東部の小さな存在から、一躍選手権チームにのし上がるほどの成長をみせた。その他、モリソン(Ray Morrison)の率いるサザーン・メソジスト(Southern Methodist)大学、ヨストがコーチし、名手フリードマン(Benny Friedman)を擁するミシガン大学を始め、各地でパスを取り上げて脚光を浴びるチームが続出した。こうして空中曲芸的なフットボールの時代がつづき、観客は次第にその魅力に酔いしれていった。



第七章 フォーメイション・フットボールの推移


 フォーワード・パスが新しい武器として取り上げられ、フットボールの攻撃型を実質的に変化させる動きの見え始めたころ、攻撃型に強い影響を与える二つの重要なものが発達してきた。その第一はウィング・バック・フォーメイション(wingback formation)であり、第二は(shift)である。前者は以後の攻撃型の標準を確立したものであり、後者も攻撃型に強い支配力を見せたが、これは以後の規則制限によって次第に衰微していった。ここでは最初のオールドTに始まり、マス・プレーの動乱期を経て明確なフォーメイション時代に入った過程・及びその後現在までの攻撃型の変遷をたどってみる。

 1 攻撃型の変遷


 フットボールの特徴の一つとして攻守の判然たる区分が挙げられる。そのため攻守両局面を独立するものとして研究し、攻めれば得点の追求、守れば失点の防止を目的として激しく攻守が争い、そこに攻撃型、守備型の展開がみられた。
 攻撃型の最初のものはTであり、ついでエンド・バック、ガード・バック、タックル・バックなどが1890年代に流行をみせたが、これらはいずれもマス・プレー時代の原始的なフォーメイションであった。この時代のフットボールは専ら力の闘争であり、攻撃側はまずフライング・スタートによって守備力を抑えつけようとし、これが禁じられるとラインの人員に制限がないところから、バックフィールドの人員を増やすことによって集中的な力を守備側にぶっつけることを考えた。これに対し守備側も力には力をもって応じたため、故障者続出の物凄いフットボール時代を生んだ。実質的にはフォーメイションそのものの妙味はみられないが、このマス・プレーをもって第一期のフットボール時代と名付けてよかろう。
 1906年にフォーワード・パスが合法となり、1910年にラインの7人制が規定されたときから本格的なフォーメイション・フットボールの時代が始まるといってよい。その第一段階はシングル・ウィング(single wing)とボックス・フォーメイションの時代である。この時代に於いても最初はマス・プレーの名残をとどめ、バックスがくさび型になって強引な突破プレーに頼ったものだが、次第に外側へ迂回する攻撃方法が各チームの狙いとなっていった。これに対し守備側はオーバーシフト(overshift)の研究によってオープン攻撃を封じようと試み、逆に守備が攻撃を上回る一時期を招いた。ために攻撃側はリバース・プレー(reverse play)の活用、パス、パントの可能性をウィングバック、ボックス各フォーメイションに織りこむなど、その多角的な機動力にモノいわせようとし、第二期のフォーメイション・フットボール時代は1910年から約30年、いわゆるフットボールの黄金期を大いににぎわせたのであった。
 1940年に入ってモダーンTの成功がそれ以前のフットボールに革命をもたらした。スピードとタイミングを生命とするTフォーメイションは最初QBから他のバックにハンド・オフ(hand off)するライン突破プレーを確実な稼ぎ手としていたが、これが段階守備法(offset defense)の研究によって効果を減じると、今度はハンド・オフ・プレーを囮としてまたも大きくオープンを狙うように変わっていった。最初の型通りのタイトTからスプレッドT(spread T)フランカーT(flanker T)スプリットT(split T)に移っていった過程はいずれもこの推移を物語っている。
 現代のフットボールは左右に大きく移動するスウィンギング・フットボール(swinging football)の時代であるといわれる。しかも近時の傾向としてパス重点策が取られているところからみて、攻撃側はフィールドを一ぱいに使った広範な動きで守備を乱そうとする。従って守備側も勢い広く散開することを余儀なくされた。現代は明らかに攻撃力が守備力を上回る得点力豊かな時代であるといってよかろう。

 2 オールドT(old T)


 1880年、スクリメージの創設とともにボールをプレーに移すクォーターバック(QB)がゲームの中に姿を現した。それまでのラグビー式スクラムでは、両方のラッシャーズの間にボールを投げ入れ、互いに靴で後ろに蹴って味方のバックに送ろうとしたものであったが、このスクリメージの手続きによってボールをプレーに移す方法が確立された。そのため攻撃チームは進んでプレーを組み立てることができ、このオールドT型からVトリック、ウェッジなど物凄いマス・プレーを繰り出したものであった。1880年から約10年間はこのオールドTがきまった攻撃型となり、ラインは完全なバランスをもって相手のラインと正面から対峙し、バックスは今日のT型より遙かに深い位置でプレーしていた。

 3 エンズ・バック(ends back)


 1888年にロー・タックル(low tackle)の規制があり、ブロッキングの合法化が認められて、バックフィールドがラインに接近してプレーするようになるとともに従来のマス・プレーを上回り、さらにフライングを伴う破壊的な肉体闘争の時代となる。その最初の攻撃型がこのエンズ・バックであり、1890年、エール大学を出たスタッグ(A. A. Stagg)がスプリングフィールド・カレッジで初めて教えた。当時のルールではラインの人員に制限がなかったので、両方のエンドを後退させてバックフィールドの力を増強させようと狙ったものであり、以後数年の流行をみるようになった。
 スタッグはエンドをラインから約2ヤード後方で、ほとんどQBと同じ線上に下げ、プレーによって少しずつその位置を変えさせた。このエンドの動きは
 (1) ボールを持ってオフ・タックルやオープンへの効果的なランナーとして
 (2) バックスが中央またはオープンを衝く時のブロッカーまたは援護走者として
 (3) エンドが加わって行なう新しいクリス・クロス・プレー(criss-cross play)のキー・マンとして
実に多方面に及んだ。
 1893年になるとプリンストン大学もこのエンズ・バックを効果的に使い、キング(Philip King)がエンドをラインから2.5ヤード下げ、タックルの外側に配置して完全な一連のプレーを作り出した。

 4 ガーズ・バック(guards back)


 1894年にVトリック、フライング・ウェッジなどの惰性をつけたマス・プレーを無効とする改革があったが、そのルールに接触せずに物凄い威力を示すものとしてペンシルヴァニア大学のコーチ、ウッドラフ(G. Woodruff)が創造したのがこのガーズ・バックであった。ウッドラフは1894年の対プリンストン戦で初めてこのフォーメイションを使い、その絶対的な破壊力は忽ちのうちに遠く広くフットボール界にセンセーションを巻き起こした。そして以後ハーバード大学がその防止策を工夫するまで約6年間はガーズ・バックの時代がつづいた。このフォーメイションは2人のガードをラインからバックフィールドに下げ、中央といわずオープンといわず、ライン各所を自在に衝く機動性をガードに持たせたために非常に強力なものとなった。しかしこのプレーがまた負傷を多く伴うところからついに1910年の改革案に於て無効として葬られた。

 5 タックル・バック(tackle back)


 1894年、スタッグはシカゴ大学でタックルズ・バック・フォーメイションを発明した。これは同年11月29日、感謝祭の日の対ミシガン戦で初めて用い、2人のタックルをそれぞれガードの後方2〜2.5ヤードの所に位置させ主として相手のタックルの内側を狙って成功した。このプレーは1890年のエンズ・バックと同系のものであった。
 一方、ウッドラフのガーズ・バックに強い影響を受けたウィリアムス博士は1900年にミネソタ大学にやってくるとタックルを1人だけバックフィールドに下げる新しい型のフォーメイションを創案して大いに効果をあげた。このプレーは早速エール大学にも取り入れられ、キャンプ・コーチの手によって完成された。そしてこの型のタックル・バックもまた暫時フットボール界を支配する強力な武器となったが、ついに1910年、ラインからバックフィールドに後退して位置することを禁じ、ライン7人制が明確に規定されるとともにその働きも終わった。

 6 シングル・ウィング・バック(single wing back)


 1910年のルール変更によってラインの7人制がきまり、またマス・プレーの使用が禁じられると、バックフィールドに於て力を集中する方法はなくなり、今度はバックスの有効な配列が問題となってきた。1912年、キャリッスル大学のコーチ・ワーナー(Glen Warner)はシングル・ウィングという新しい攻撃型を作り出し、ついでダブル・ウィングを生み出して本格的なフォーメイション・フットボール時代の先鞭をつけた。当時守備側のタックルは大概攻撃側エンドの外側に位置していたため、オープン・プレーの時にそのタックルをブロックするのが大へん厄介な仕事であった。そこでワーナーはバックの1人を相手のタックルの外側に置くアイディアを考え、初めて1912年の対アーミー戦に用いて快勝の直接因となった。これがモダーン・シングル・ウィングの前駆としてZフォーメイションと呼ばれるものであり、ラインは左右アンバランスであった。この戦法はとくにストロング・サイドへの早いオープンの展開を可能にしたが、それに対抗するため守備側がラインをずらしてオープン攻撃を阻止すると、今度はショート・サイドへのリバース・プレーを発達させる結果となった。

 7 ノートルダム・ボックス(Notre Dame Box)


 1920年代にノートルダム大学がTから一種のシングル・ウィングにシフトする攻撃法を軌道に乗せ、以後10数年ロックン(Knute Rockne)の指導によって一時期を画した。すなわちノートルダム・ボックスの全盛期である。これについては次の機会に詳述する。

 8 ダブル・ウィング・バック(double wing back)


 シングル・ウィングからのリバース・プレーが次第にマークされるようになると、ショート・サイドのタックルをブロックすることが難しくなり、その効果を段々と減じてきた。そこでこのタックルをブロックする必要がダブル・ウィングの発達をうながすことになった。ワーナーが創始したこの攻撃の最初のものはAフォーメイションと呼ばれ、ラインはタイトであり、アンバランスであった。この攻法は本質的にはパワー・フォーメイションであり、とくに優秀なFBを擁した時に効果があったが、またスピンやリバースを使った変化プレー、パス・プレー、ラトラル・プレーにも強力な持味を持っていた。
 このAフォーメイションから用いられた3つの攻撃サイクルは
 (@) FBがLHにボールを渡すか、キープするか、またはRHにボールを渡す3つの組み合わせで、キープの時は相手のタックルの位置を衝き、どちらかのHBに渡す時はともにオープンを狙った。こうしたリバース・プレーの狙いはシングル・ウィングと同系のものであり、それをさらに高度に発達させたものであった。
 (A) FBがRHにボールを渡すか、キープするかLHに渡すか、3種の組み合わせであり、このサイクルの妙味はFBがキープして一回転したままLHに前でのハンド・オフを行なうところにあり、FB自らも有効な援護走者として働くことができた。
 (B) FBの強引なライン突破プレーを基礎とし、これにラトラル・プレーを組み合わせて有効なオープンへの転換を狙ったものである。ラトラルの時にはFBがどちらかのタックルにボールを渡しHBまたはエンドにラトラルを送ってオープンを衝いた。
 Aフォーメイションの発達した形がBフォーメイションであり、FBはAよりも深く約5ヤード後方で、パス及びクィック・キックに適した位置についた。この攻法からAと全く同じ狙いで各種のプレーが繰り出されたがQBがラインとFBの中間に位置してこの攻法のキー・マンとなっているのが注目される。
 さらにダブル・ウィングはBからCフォーメイションへと進んでいった。これは両エンド及び両ウィングバックを広く位置せしめることによってプレーの行動範囲を著るしく拡大し、とくに最良のパス・フォーメイションとして絶大なる威力を示した。

 9 ダブル・ウィング・バックの原理


 ウィング・バック・システムの流行はフットボールの発展に一時期を画するものであった。このシステムを作りだしたワーナーのアイディアはスタッグのエンド・バック、及びワーナー自身がコーネル大学の主将時代にニューエル(Newell)コーチに指導されたエンド・バックに影響を受けたものである。
 彼のウィング・バックの原理は
 (1) ウィング・バックが両サイドの守備側タックルに適切なブロッキングの角度を得ること
 (2) 守備ライン全体をオーバーシフトさせないこと
 (3) ラインをプルアウトに出す時、クロス・チェック(cross check)が可能なようにアンバランス・ラインを用いること
 (4) ラインを安全にプルアウトさせるためエンドからエンドまでをタイトにすること
 (5) 縦へのパワーな突進、ウィング・バックを使っての横の変化に富んだ動き、及びパス、パントの可能性など各種の機動力を有すること
などであった。
 ワーナーは1913年にキャリッスル大学で初めてダブル・ウィング・バックを案出したのちスタンフォード大学に転じたが、以後も改良を重ね、1928年、アーミーとの大試合に於てその完成された妙味を示した。その時まで最も流行した攻撃法は標準的なTフォーメイションからシフトするノートルダム・ボックスとシングル・ウィングであったが、翌1929年にはダブル・ウィングが全米を席巻する勢いであった。この年、ケル(Andy Kerr)はコルゲート(Colgate)大学で大成功を納め、ひきつづき数年は強豪の名をほしいままにした。

 10 トリプル・ウィング・バック(triple wing back)


 1928年、ブラウン大学のコーチ、マックローリィ(D. O. McLaughry)がワーナーのシステムに改良を加えてトリプル・ウィングを初めて使用した。そしてその年、強豪コルゲート大学を破る殊勲を立て、つづく5年間はその卓越したパス・ラン両面の可能性を示した。

 11 ショート・パント(short punt)


 スクリメージ設定以前のフットボールの原始時代は殆ど深いパント・フォーメイションからキックを多用していたが、当時は直接センターからキッカーへボールを送るやり方はみられず、QBがその中継者となっていた。直接のスナップ・バックが用いられたのはやっと1895〜1896年のことであり、その発案者スタッグが直ちにこのショート・パントフォーメイションとクィック・キックを紹介している。そして1910年、1920年代にはこのフォーメイションからキック、パス、ランの変化をみせるようになった。ハーバード大学のホートン(P. Haughton)ミシガン大学のヨスト(Fielding Yost)らもこれに着眼している。

 12 スプレッド・パント(spread punt)


 パント・フォーメイションの変形としてラインの間隔をひろげたスプレッド・パントが1910年代にスプリングフィールドのコーチをしたマッカーディ(J. H. Mccurdy)及びアーカンソー大学のベズデック(H. Bezdek)によって取り上げられた。パンターはセンターから13〜15ヤードもさがり、パンターを守る者は2人のバックだけであり、他の全員はボールのスナップと同時にパントのカバーに飛び出して大いに効果をあげた。同時にこの広範囲な配列から守備を拡げたのち、パス、ランを織りまぜる機動性もみられた。このシステムは優秀なセンターの存在が決定的なカギとなるものであり、1940年代に入って多くのチームがこれを取り上げるとともに優秀なセンターを生んでいった。1916年、ズプク(Zuppke)の率いるイリノイ大学が強豪ミネソタ大学を破ったのもこのスプレッド・パントの威力であり、最近ではテキサス・クリスチャン大学のメーヤー(D. Meyer)がこのシステムの第一人者として有名である。

 13 Yフォーメイション


 1922年、サザーン・メソジスト大学ではモリソン・コーチがYフォーメイションを作った。この攻法の特徴は4人のバックスがY字型に並んで、いずれも直接センターからのスナップ・ボールを取れる位置にあることであった。モリソンはこのYフォーメイションとショート・パント・フォーメイションを併用して1923年、1926年に地区の覇権を得ている。
 降って1941年にシラキュース大学のソレム(O. Solem)コーチが別種のYフォーメイションを紹介した。この方法ではバックスの配置はモリソンの作ったものと大差なかったが、センターがスクリメージに背中を向けて反対になり、バックの方を向いてボールをパスするものであった。このためセンターは直接バックに広くボールを送ることができバックの活動範囲を著るしく拡大した。翌1942年、ルール委員会はこの反対向きのセンターの妥当性を検討した結果、これを公正でないとして禁止した。
 

 14 モダーンT(modern T)


 1940年代に入るとともにウィング・バックの時代は一転して、スピードとタイミングを生命とするモダーンTの時代に入る。フットボールのそもそもの最初に基本的なフォーメイションであったTが結局現代のフットボールを支配するものとして返り咲いたのである。このモダーンTについてはつぎの機会に記することにする。
 

 15 IフォーメイションまたはトルーT(true T)


 1949年、ヴァージニア軍官学校(Virginia Military Institute)のコーチ、ヌージェント(Tom Nugent)が発明し、1951年には突如、名門ノートルダム大学が再び採用して話題をまいた。このシステムではQBはノーマルTの位置にあり、その後にFB、RH、LHの順で1列に配置され、バックスがすべて同じ所からスタートするため守備陣を混乱させる効があった。



第八章 シフトの流行


 シフト(shift)とは、ラインまたはバックの位置を急激に転換して守備の能力を低下させることを目的としたものであり、ウィングバックの流行が攻撃型、攻撃配置の魅力であるとすれば、シフトの強味は守備側にとって予知し得ない動的なところに求められる。1910年以後、フットボールが新しい体制に入って、ウィングバック・フォーメイションが流行を始めた同じころから、このシフトも強い影響力を示すようになった。そして各チームがこのシフトを取り上げたが、ウィリアムス博士のミネソタ・シフト、ジョージア工大でハイズマン・コーチが作ったハイズマン・シフト、それにロックンの大成したノートルダム・シフトの三つがとくに有名である。1927年、ルール委員会が“プレーが始まる前に攻撃側は1秒間の停止”という改革を行ってから、シフトは次第に人気を失っていった。

 1 シフトの起源


 フットボールの天才、スタッグがこのシフトも権威筋から創始者たるの信用を得ている。フォワード・パス採用以前にスタッグは早くもこのアイディアを実行に移している。1920年、彼はラインのタックルを反対サイドのタックルとガードの間に移して守備側を当惑させた。これがアンバランス・ラインの始まりであり、シフトの起源でもある。スタッグは1904年バックフィールドにもシフトを用いたが、1910年になるとまた別種のシフトを始め、バックスがシフトをするのとほとんど同時に、ボールはスナップされてプレーに移された。このシフトはのちにノートルダム・シフトに引きつがれた。
 一方、シフトの創始者としてミネソタ大学のウィリアムス博士を挙げる説もある。ミネソタ大学が初めてシフトを使ったのは1903年か1904年であるといわれ、ライン全部をバックフィールドと一緒にシフトさせたという。またワーナーが1899年にカーライル大学でラインのシフトを創始したという説もあるが、これはワーナー自身が否定している。
 

 2 ノートルダム・シフト(Notre Dame shift)


 シカゴ大学のコーチ、スタッグの弟子であったハーパー(Jesse Harper)は1913年にノートルダム大学のコーチとなり、その年、本格的なフォーワード・パスを使用して強豪アーミーを倒し、一躍全国的な名声を得たことはあまりにも有名である。そのあとハーパーはシフトを伴ったノートルダム・ボックスを軌道に乗せ、偉材ロックンがこれを大成して久しい黄金時代を謳歌した。
 ノートルダム・シフトの基本型はラインがバランスで、バックフィールドはノーマルTからボックスにシフトした。このシフトの方法が相手守備陣にプレーの察知を困難ならしめたわけだが、しかしノートルダム大学の成功が単にシフトだけに依存したものではないことは、1921年の対アーミー戦をシフトなしで28−0の快勝を導いたことでも明らかである。1秒間停止ルールの制定で多くのチームがシフトからウィングバックに転針したにもかかわらず、ノートルダム大学が依然ボックスから揺るぎなき強豪ぶりを維持しつづけたのも、単にシフトの問題ではなく、ノートルダム・システムそのものの強味であったといえる。その意味でノートルダム大学の築いた功績はやはりフットボール史上特筆されてしかるべきことである。

 3 ミネソタ・シフト(Minnesota shift)

 ウィリアムス博士のミネソタ・シフトの起源を1903年または1904年とする説もあるが、通常はフォーワード・パスが合法となった1906年だとされている。そのシフトは最初両タックルがセンターの後ろに並び、バックフィールドはまたその後ろにいて“ヒップ(hip)”の号令とともに種々変化に富んだシフトに移り、普通はラインがアンバランス、バックはボックスに位置した。ウィリアムス博士のシフト理論は守備側の側面に急速に移動することによって、守備の人員よりも1人多い攻撃者を攻撃点に配置することであり、とくにタックルへの攻撃を強調した。
 ミネソタ大学はウィリアムス博士のあとをついだバイアマン(Bernie Bierman)コーチのもとで最高のチームを築き上げたが、彼はウィングバックをラインの後方深い位置に置き、とくにウィーク・サイド攻撃を必須部分として成功した。しかし1秒停止ルールの出現とともにミネソタ・シフトの利点が影をひそめたのは論をまたない。

 4 ハイズマン・シフト(Heisman shift)

 ジョージア工大の鬼才、ハイズマンが1910年ごろ、きわめて複雑なシフトを採用した。彼のシステムはセンター以外の10名をスクリメージの後方に下げ、それから多様なシフトを開始し、守備のバランスを崩したのちに早いスタートを行った。このシフトが最も成功したのは1917年、強豪ペンシルヴァニア大学に対し41−0の大勝を博したときであった。彼は1921年にはアイオワ大学に移ってこのシフトを効果的に用い、その年早くもビッグ・テンの覇者となった。
 ハイズマンは1930年にはサザーン・カリフォルニア大学に移って同じく複雑なシフトを用いたが、これはラインがバランス、アンバランスの両方に変化し、バックフィールドもシングル、ダブルの両ウィングバックを時宜に応じて採用し、バックがラインに上がったり、エンドがバックにシフトしたり、実に多種多様な配置転換を用いた。
 

 5 その他のシフト

 その他、1910年ごろにネービーのバックフィールド・ジャンプ・シフト、同じころ、アーミーのハドル・シフト(huddle shift)、1908年、ハーバード大学のホートン(Haughton)が作ったホイール・シフト(wheel shift)などが初期のものとして挙げられ、ついで1930年代のアラバマ、ノースカロライナ、コーネルの各大学、1940年代中期にもネービーがシフトを用いて大成功をみせたが、シフトに関する熱狂の度が加わってきたため、1947年、ルールでランニング・シフトを非合法とした。



第九章 Tフォーメイションの拡大


 1912年に最後の基礎的なルールの修正があって以後、アメリカン・フットボール界に起こった変革の中では、1940年に紹介された新しいTフォーメイションの復活ほど影響力の大きいものはない。これはルールの変更にはなんら関係ない戦術面の一大改革であり、このとき以後T全盛の現在の姿を生み出す推進力となったものである。
 アメリカン・フットボールの初期の姿は現在のTと似通ったものであり、これをオールドTとして区別している。1888年にオールドTが初めて出現してから、マス・プレーの混乱期を経てフォワード・パスの採用、ウィングバック、シフトの発展とフットボールの歩みがつづけられたが、この間、Tフォーメイションは攻撃の基本型として依然その姿を保っていた。ノートルダム大学がその全盛期にTからボックスへシフトしてその効果をあげ、ときにはシフトせずにTプレーそのものを使うようなこともあったが、1924年、1927年、1930年のシフトに関するルールの変更により、一時期を画したノートルダム・ボックスも下火となった。その結果、ダブル・ウィングを初めとする典型的なウィング・バックの流行とともに、さらに何か新しいものを求めようとする機運が、ついにモダーンTを導き出したということができる。その開花は1940年のスタンフォード大学、およびプロ・フットボールのシカゴ・ベアズ(Chicago Bears)における大成功であった。
 

 1 オールドTの時代


 オールドTは1888年のルール変更の結果として生まれた。それまでラインは両腕を広くひろげて立ち、HBは7〜8ヤード、FBは10〜11ヤードも深い位置でプレーしていたが、この年、ロー・タックルの規定とブロッキングを合法とする改革案が示されたため、ライン、バックともに現在のフォーメイションにかなり近いほど接近して動くようになり、オールドTが一般的なものとして使われ始めた。
 最初QBはセンターから約10センチ離れ、センターから送られるボールのリバウンドを取るために片膝をついて低く構えていたが、1894年シカゴ大学のコーチ、スタッグはファンブルを避けるためQBに腰高の姿勢で直接センターからのボールを取らせ、現在のQBの位置を初めて生み出した。
 初期のオールドTはラインが肩と肩を並べる、いわゆるタイトTの形であり、その狙いはタックルの位置に力を結集することであった。そしてもっぱら力に頼り、スピードとトリックにはまだ強調点を置いていなかった。
 この単純なオールドTに種々の変化を持ち込んだ第一人者は、またもシカゴ大学のスタッグであり、モダーンTの必須部分を早くも創案している。まず1898年には現在のマン・イン・モーション(man in motion)と同じ原理のフライア(flier)と名付ける変化を考案し、引きつづきディレイド・バック(delayed buck)、キープ・プレー(keep play)、フランカー(flanker)、フェイク・パス(fake pass)、オプション・プレー(option play)、ペディンガー(pedinger)などの変化を実戦に採用している。
 

 2 ベアズTの展開


 1920年に新しくできたプロのナショナル・リーグにシカゴ・ベアズ(Chicago Bears)が加盟し、変化に富む種々のフォーメイションを用いたが、その一つにTも含まれていた。その後1930年にコーチとなったジョーンズ(R. Jones)が当時の最大のスター、グレンジ(Red Grange)を使ってマン・イン・モーションを効果的に用い、ラトラル・プレーやパス・プレーに成功をみせた。このため相手チームは守備陣を拡げねばならず、ベアズはパスの威力とともに相手の拡がったラインを衝くラン・プレーに成功をみせるようになった。
 1933年からはジョーンズに代わってオーナーのハラス(G. Halas)が実戦の指揮を取り始め、種々の新機軸を加えていったが、1937年にはシカゴ大学のショーネス(C. Shaghness)コーチがベアズの顧問として参加し、ベアズTの向上に力を尽くした。この間、ベアズの好敵手たるグリーンベイ・パッカーズ(Green Bay Packers)、デトロイト・ライオンズ(Detroit Lions)などが回転式5−4−2守備法(revolving5−4−2defense)を考え出してベアズのラン、パスの機動性を封じようとしたが、これに対しベアズはまたも1939年にカウンター・プレー(counter play)をうまく使って5−4−2に対抗した。こうして1940年の画期的なベアズの全盛期が到来するが、その攻法はいわゆるワイド・オープンTの端緒であった。
 この新戦法は名QBのラックマン(Sid Luckman)を擁して最大の効果をあげ、ワシントン・レッドスキンズ(Washington Redskins)を73−0で大破してその年の覇権を獲得した。このベアズTの新戦法はそれまでの重々しい型のTから一転して、スピードとタイミングに主眼を置くモダーンT時代への契機となった。
 ベアズTの特徴をあげると、
(1) ベアズの作り出したワイド・オープンTはエンドを広くひろげるとともに、左右どちらかにマン・イン・モーションを送り、フィールド一ぱいを使って攻撃地域を著しく拡大した。
(2) シグナル・システムの使用により、エンドとバックの変化をつけるとともに、ラインも適宜シフトを変え、まず相手の守備型に混乱を起こさせた。
(3) 数種のフランカーやマン・イン・モーションの使用によってベアズTは実質的にはノートルダム式のボックスやワーナー流のダブルウィングに似た攻撃型に移行するわけであり、単にTというにとどまらず、あらゆる攻撃型を綜合した幅広い力を持ち、機に応じて適宜フォーメイションを使い分けながらTDを狙うという行き方であった。
 

 3 スタンフォードTの成功


 シカゴ大学のコーチをしながらベアズTの計画にも参加していたショーネスは1939年、スタンフォード大学に移り、翌1940年にはベアズTを取り入れて猛威をふるい、大学フットボール史上でも特筆されるほどの強いチームを作り出した。その4人のバックフィールドはアルバート(F. Albert)を初め、すばらしい名手をそろえてシンデレラ・ボーイズ(Cinderella boys)と呼ばれた。この年、スタンフォード大学はリーグでは10戦全勝で優勝、ローズ・ボウルにも出場してネブラスカ大学を一蹴した。
 

 4 モダーンTの性格


 シカゴ・ベアズとスタンフォード大学の成功から、またたく間に全国を風靡したモダーンTは、何よりもスピードとタイミングに主眼を置いた。従来のようにパワーに頼り、緩慢な型のフットボールはすでに過去のものとなり、全体のスピードと機械的なタイミングが大いに強調された。攻撃力のカギといわれるブロッキングも、力の限りをつくして相手を押し倒す必要はなく、単に最も妥当な時間に相手の動きを一瞬止めるだけで十分であった。その瞬間にボール保持者がサッと走り抜けるという具合に綿密に組み立てられ、チームの全員が一糸乱れず忠実な動きをすることが何よりも求められた。この結果、個人的な力、技術といったものよりも、各人がまったく分業的にそれぞれの機能を果たしながら、しかも全体のバランスを問題にするという機能的フットボール、科学としてのフットボールへの道に大きく踏み入れることになった。

 5 スプリットT(split T)の出現


 ベアズTが猛威をふるったわずか1年後の1941年に、早くもTの変型たるスプリットTがミズーリ大学のファーロー(Don Faurot)によって発明された。ファーローは1939年に名パサー、クリスマン(Paul Christman)を使ってシングル・ウィングで覇権を得たが、クリスマンの卒業とともに攻撃法の転換を考え始め、スプリットTの実験に取りかかった。ファーローがスプリットTを選んだのは、
(1) 卓越した名手がいなくても平均した選手がいさえすればよい
(2) 1プレー当たりの平均獲得距離が多くなる。ためにロング・ランはなくとも着実なペースを保つことができる。
(3) バックスはより多くオープンに出ていくことができる
(4) 標準的な守備法に大きな圧力を加えることができるなどの理由からであった。
 スプリットTの特徴としては、第一にラインの広い間隔、第二にQBのスライド、第三にボール保持者たる新しいQBの機能、第四に複雑なトリックなどが挙げられる。
 ラインの間隔を最初から広く開いているのは“バックスの通るべき穴はすでに存在する”という考え方であり、従来のタイトTにおいてラインが力をつくして相手を押しのけてバックスの進路を作っていたことに比べると、すばらしい着想というべきものであった。したがってスプリットTのラインズは穴を作る労力から、すでに存在する穴を維持するだけに腐心すればよかった。またQBは単にボールの仲介者たる域を脱し、スピンを捨てて横にスライドし、自らボールを持ったまま走るキープ・プレーをカギとして、しばしばオープン攻撃に威力を加えることができた。
 1941年のミズーリ大学はこのすばらしいスタイルに道を開き、1ゲーム当たりランによる平均獲得距離において全米一の好記録を作った。そして彼の教えを受けたウィルキンソン(Bud Wilkinson)はオクラホマ大学において、またテイタム(Jim Tatum)はメリーランド大学において強力きわまりないスプリットTチームを生み出し、1954年のアーミー対ネービー戦で、ネービーが見せたスプリットTもそのプレーの可能性を明瞭に示した実例であった。
 

 6 ウィングT(wing T)


 1940年代に流行したもう一つのTの変型ウィングTである。そのアイディアはTとシングル・ウィングの一番いい内容を取って一つのフォーメイションに結びつけることであり、コロンビア大学のリトル(Lou Little)がその第一人者として知られる。彼は1944年の後半からウィングTを取り上げ、とくにすぐれたパス・プレーに妙味をみせた。

 7 Tダブル・ウィング(T double wing)


 もう一つの注目すべきTの変形が1950年代に姿を見せ、Tダブル・ウィングといわれた。これはミシガン州立大学のマン(Clarence Munn)が開拓し、1953年に最もすばらしいチームを作り出した。そのアイディアはその名の示すごとく、Tとダブル・ウィングを結びつけたものであり、この新戦法を使ってミシガン州立大学は1950年から3年間に、わずか1敗という快記録を残した。



第十章 近代フットボールの種々相


 近代フットボールは1913年から始まるといってよい。1912年の恒久的ルールの設置以後、ルールに加えられた変更は比較的小さな性質のものであった。例えば1914年に選手の自由交代制を認めて攻守の専門チームを作り上げ、1953年には再びそれを取り止めたように、その効果に於いては徹底的なものであってもフットボールの性格そのものには何の関係もなかった。1912年のルールを知っていてその後全くフットボールと接触を絶っていた人でも今日のフットボールを完全に理解することができるのである。連年つづけて行われるルールの変更は基本的には選手とコーチの権利の保護、及び競技者の安全という二つの観点に立つわけであるが、形態的には攻守のバランスをつねに保持するという線に沿ってルール委員会が働らいていることは明瞭である。
 さて1912年を境として形態的に確固たる基礎が形成されるとともに、特に第一次世界大戦が終わってから1930年にかけては大衆の絶大な人気を集め、かつ折からの好況の恩恵を受けてフットボールは圧倒的な黄金時代を謳歌した。自動車と舗装道路による交通の便、新聞のスポーツ欄、ラジオによる宣伝の拡張など、マス・コミの好背景もあって各地に巨大なスタジアムが作られて数万に及ぶ観戦者を集めた。そして大学フットボールはそれ自体、大規模な商業主義の真只中で歩みつづけることを余儀なくされ、勢い数々の問題点をつねに抱きながら今日に至っている。この稿では1912年以降の主なるルール変更を取り上げるとともに、近代フットボールの種々相に触れてみる。

 1 背番号


 1915年に選手に背番号をつけることが正式に決まった。初めての試みは1908年、ワシントン・アンド・ジェファソン大学が陸上競技者の番号にヒントを得て使用したものであったが、この案は実用的でないという理由ですぐに取り止められてしまった。その後、1913年にスタッグの率いるシカゴ大学がウィスコンシン大学との試合に於て海老茶のユニフォームに白い背番号をつけて現れ、観客に大いに喜ばれた。1914年にはビッグ・テンが背番号をつける案を採択し、その年から翌年にかけてピッツバーグ大学のマネジャー、デビスがプログラムを売ってその中に選手の背番号を記入するという案を考えついて大成功を納めた。こうして1915年、正式にルールで選手に背番号をつけることが示され、1937年にはユニフォームの前後に番号をつけることが求められた。

 2 新しい得点形式


 1922年に新しい得点形式が取り上げられT・F・P(try for point)といわれた。以前はTDのあと、ゴールを狙うものとしてはプレース・キックだけが認められていたが、このルールによってゴール・ラインから5ヤード離れたところでスクリメージが許され、キック、ラン、パスの如何なる戦法を用いてT・F・Pを狙ってもよいことになった。1924年にはT・F・Pが5ヤード・ラインから3ヤード・ライン、1929年にはさらに2ヤード・ラインと変わった。1927年には危険をなくし、T・F・Pをさらに難しくするため、ゴール・ポストをエンド・ゾーンの端の線、すなわちゴール・ラインから10ヤード後方のエンド・ラインに置いた。しかしキックによってT・F・Pを試みる成功率が著しく高まる傾向に鑑み、1958年にはT・F・Pをゴール前3ヤードからとし、キックによるもの1点、ラン、またはパスによるもの2点と得点差をつけるようになった。

 3 最後の恒久的改革案


 1931年は多数の死傷者が出てまたまた大きな反響を呼んだ。そこで翌1932年、直ちに危険に対する安全策が樹立され、最後の恒久的改革案ともいえるルールの変更があった。それまでキック・オフの際にはレシーブ側の10人はボール保持者を囲み密集を作ってボールを進めることが許され、この一点に古いマス・プレーの名残りが留められていた。この危険を防止するため、ルールは“レシーブ側の少なくとも5人の選手はボールがキックされるまではキック側の制限線の15ヤード以内に留まること”を要求した。またボール保持者が倒れたのち、なお前進を止めない傾向を抑えて“ボールは保持者の身体が両手両足以外のどこが地面についても自動的にデッド”と宣告された。

 4 防具


 1939年にヘルメットをつけることが命じられたが、防具の変遷については全く選手が必要に応じて適宜使用、改良したものであってルールによる規定はこの時が初めてである。1869年、プリンストン大学とラトガース大学の間に行なわれた最初の学校対抗の時はユニフォームもなく上衣とチョッキだけをつけて戦ったが、1875年、エール大学とハーバード大学の第一回対抗戦の時に初めてエール大学が紺色、ハーバード大学が深紅色のユニフォームをつけて現われた。身体を保護するものとしては1890年前後からフットボール・パンツに自家製のパッドを入れて膝や向こう脛を保護するくらいであり、やっと1900年ごろに皮のヘルメット、皮だけのショールダー・パットが用いられるようになった。しかし、そうしたパッドを使うのは卑怯者だといった観念がまだ失われず、普遍的な使用には至らなかった。1906年ゲームの安全化に腐心するルール委員会が種々の改革案を取り上げたころから漸く腰のパッド、肘を保護するパッドが普ねく取り上げられるようになり、1910年ごろにはヘルメットも一般的になっていった。しかし防具が次第に一般化するとともに逆に金属性の板で補強したパッドの類を使用するという危険な状態をしばしば見るようになったため、1932年、ルールでその保護措置を明確にし、越えて1939年、初めてヘルメットを必ず着けることを膝と肩のパッドの厚みを増すように決めた。
 現在用いられているファイバー製の防具はスタンフォード大学のコーチ、ワーナーが靴ベラからヒントを得て制作させたものであり、その材料はまたたく間に全国的に利用されるようになった。

 5 攻守交代制


 初期のフットボール時代にはほとんどのチームがフルに活動し、故障の場合にのみ交代選手を使ったようであるが、この選手交代に関する明確なルールを規定したのは1922年が最初で“一度退場した選手はタイムアウトの場合にのみ、つぎのクォーターにはゲームに戻り得る”となって多少交代制が緩和され、越えて1941年、選手交代に関する根本的な変更があって選手の自由交代制が認められることになった。この改革から4年後、ミシガン大学が始めた二交代作戦がフットボールの効果という観点から大きな問題となって浮かび上ってくる。
 1945年、ミシガン大学のクリスラーが初めて攻守の二交代作戦を実行に移し、強豪アーミーに対して善戦したので一躍これが全国的に普及する端緒となった。丁度1942年からの戦時制限とフットボール人口の減少のためにどこのチームも選手不足に苦しんでいた。従って攻守どちらかしか才能のない選手といえども実に貴重な存在であった。対アーミー戦を前にしたクリスラーは全く必要に迫られて攻守の才能によって選手を使い分ける方法を考え出した。当時のアーミーはデービス、ブランチャードを擁して全米一の強チームであり、ミシガン大学の方は兵役に関係のない若者か、身体に故障のあるものばかりで、勝敗の帰結は明瞭であったが、それでもこの新しいシステムの使用によって第三クォーターまで7〜の好試合を演じて大きなセンセーションを巻き起こした。この時のミシガン大学はラインだけに限って攻守の専門選手を使ったが、1947年には全選手に及び、しかもほとんどのチームがこのシステムを採用するようになった。
 この二交代策の結果、多くの選手がプレーをする機会を与えられ、しかも疲労が少なくなるため負傷者が減少するという利点もあったが、その普及とともに多数のメンバーを揃え、コーチング・スタッフを増員する必要に迫られて、そのための出費が著るしくかさみ、ために小さな大学ではフットボールを廃止するようなところもあった。また事実上、大きな大学はますます強くなる一方であり、強弱チームの色分けを余りにも明瞭にしたのも一面このシステムのもたらした行き過ぎであった。
 これに対処するため、1953年には選手の自由交代制が全面的に廃止されて、1941年以前の状態に戻された。この変更に当たって一流チームのコーチ連は強い反対をとなえたが、ルール委員会では「自由交代制によってフットボール廃止の止むなきに至るがごときチームが出るのを抑えるため」としてあえて強行した。しかし1955年には交代ルールが多少緩和され“各クォーターごとにスタートした選手は一度退場してもまた同じクォーターにゲームに戻る”ことが許され、その傾向はさらに1958年には“スタート・メンバー以外でも各クォーターに2回はゲームに参加できる”ことになった。

 6 スタジアムの建設と観客動員


 近代的な鉄筋建設の競技場は1903年、ハーバード大学に建てられたものが最初で、座席数23,000という当時としては驚異的なものであった。第一次世界大戦終了後、フットボールはあらゆる要素に恵まれて最も人気のあるスポーツにのし上がり、多くの大学は工費50万〜100万ドルもする巨大なスタジアムを十分建造できるだけの費用を集められるようになった。しかもある場合には入場料が2倍、3倍にはね上がったとしてもなおこのスポーツの興味を減じないほど隆盛を極めたので、学校のためにあらゆる負債を支払い、また他のスポーツを援助してもなおありあまるだけのものがあった。
 1914年にフタをあけたエール大学のスタジアムは座席数7万を越え、当時その種のものとしては世界で最も堂々たる建物であったが、1920年から1930年に至る10年間は多くのスタジアムが建てられた。この10年間に135の大学競技場の座席数は929,523から一躍2,307,850へと増加している。こうしたスタジアムはすり鉢型、馬梯型、半円型とそれぞれの特色を打ち出し、とくに中西部に巨大なスタジアムがみられたが、中でも87,500の座席をもつミシガン大学、77,000を収容するオハイオ州立大学のものがその双璧であった。こうしたスタジアムの建設に伴う多額の経費の取扱い、並びに拡張設備のための借金の処理問題などはフットボール競技を大事業の一部分にしてしまう原因となったのである。黄金期1930年には観客動員数はついに1,000万を超える勢いであった。
 この黄金期のあと数年間は経済不況とゲームのラジオ放送のため、やや観客数は下降を示し、とくに第二次大戦中は交通の制限があってかなりの影響をうけたが、1945年のフットボール・シーズン開幕を前にして戦争が終わったので観客はそれまで以上に物凄い勢いで集まってきた。そして1946年の入場者は秋季スポーツのあらゆるレコードを上回り、以後はつねに1,500万を越える記録を示している。

 7 ボウル・ゲーム


 1915年、カリフォルニア州、パサディナ市では翌1916年1月1日の“バラの祭典”の一行事としてフットボール・ゲームを行なうことを決めた。そしてそのシーズン、太平洋岸の強チームであったワシントン州立大学に、どこか東部のチームを選んでパサディナでゲームをする権利を与えた。ワシントン州立大学はブラウン大学を相手に選び14−0で快勝した。これが正規シーズン終了後のフットボールとしてボウル・ゲームの始まりであり、最初は“ローズ協会トーナメント”と呼ばれていた。この年以後、毎年元旦にパサディナで招待ゲームが行なわれたが、1923年に現在のスタジアムが建設され、その形がすり鉢型であるところから“ローズ・ボウル(Rose Bowl)”と命名され、試合の名称も“ローズ・ボウル・ゲーム”と変わった。そして各シーズンごとに太平洋岸の強チームが選ばれて東部のチームを相手とする権利が与えられた。このゲームは大成功を納め、観客は9万人を越えるようになり、純益は約45万ドルにのぼり、それは出場2チームと競技委員会の三者で分けられた。1942年にただ一度戦時下の交通事情のため、場所をノースカロライナ州ダーハムにあるデューク・スタジアムに移したことがあったが、翌1943年にはまたローズ・ボウルで開かれた。しかし東部から太平洋岸の旅行が困難なったため、翌1944年には東部のチームを招かぬこととし、太平洋岸のチームのうち優秀な2チームを対戦させることになって、この年はサザーン・カリフォルニア大学とワシントン大学が戦った。1946年には「1947年以後5年間は太平洋岸の覇者とビッグ・テンの覇者とがローズ・ボウルに出場する」と決まり、この条項は5年経ってまた改定された。
 このローズ・ボウルの推移に対し、最初の1916年のゲームよりも以前、すなわち1902年にパサディナで行われたミシガン大学とスタンフォード大学の試合をローズ・ボウルの始まりだとする説もある。この試合はシーズン後の1月1日に古いルールの前後半2つのセクションで行われ、このシーズンの最強チーム、ミシガン大学が49−0でスタンフォード大学を一蹴した。観客は8,000人、このゲームものちのローズ・ボウルと同様、“バラの祭典”の一行事として行われたものであった。
 初期のローズ・ボウルが大成功を納めたので、これに刺激されてシーズン終了後の競技会が各地で開かれるようになり、大抵フットボール・シーズンの最後を飾るものとして元旦に行われた。そうしたゲームのうち、一番最初のものは東西対抗戦であり、1925年、サンフランシスコで始まった。この試合には東西の大学のスターが一堂に会したため物凄い観客を集め、その収益は慈善事業に寄附された。1933年にはバルチモアで南北対抗戦が始まり、一時休止したことはあったが熱心なファンの要望があったため、1939年からまた復活され、以後はずっとアラバマ州バーミンガムで行われている。
 ローズ・ボウルと並んでアメリカの4大ボウルといわれるのはオレンジ・ボウル(Orange Bowl)シュガー・ボウル(Suger Bowl)コットン・ボウル(Cotton Bowl)であり、オレンジ・ボウルは1935年、フロリダ州マイアミで、シュガー・ボウルは1935年、ルイジアナ州ニューオルリンズで、コットン・ボウルは1937年、テキサス州ダラスでそれぞれ始まった。その他、テキサス州エルパソで始まったサン・ボウル(Sun Bowl)1946年、フロリダ州ジャクソンビルで始まったゲイター・ボウル(Gator Bowl)などがあるが、これらのボウル・ゲームは大ていその土地の名産、土地の特徴を冠してその名称とし、いずれも満員の大観衆を集めて盛大に行われている。

 8 マス・コミ


 新聞に近代的なスポーツ欄を設けた最初の人はハースト(William R. Hearst)であり、1895年にニューヨーク・ジャーナル紙を買収してそれまでの常識を遙かに上回るほどスポーツの報道にスペースをさいた。この新しい方法が圧倒的なファンの支持を受けると全国の各新聞もそろってこれにならい、折から伸張一路をたどるフットボールの発展にますます拍車を掛けることとなった。そして新聞はその商業政策から個人的なニュースを語るという外国には類例のない一つの型を生み出した。大学のスター選手の写真を掲載し、その身辺にまで記事の分野をひろげるといった傾向は若い青年層に重大な影響を及ぼすものとなった。こうしたマス・コミの行き過ぎは随所にみられて多くの問題を提供しているが、大方の大学当局ではその最も有利な宣伝材料たるフットボール選手の存在を是認し、自校の評判をあげるために優秀なチームを作り上げようと努力している。新聞とともにラジオ、テレビの普及はさらにフットボールの商業主義的な傾向をますます激しくしていった。
 しかしテレビの発展が逆に観客動員に微妙な影響を及ぼすようになり、とくに第二次大戦後に再びブームが回復してくると、テレビはフットボール界の新しい問題となってきた。このため強力な組織をもつNCAAを筆頭に全国の各種機関はテレビに対してある種の制限を課することを強要するようになってきた。例えばレギュラー・シーズンの間、毎土曜日に全国的にテレビで流すのは1、2のゲームに限って許可するといった措置が取られた。テレビで大試合の実写を行うために他のゲームの観客動員に脅威を与えるというのが大多数の意見であったが、中にはテレビの使用を強力に推進する少数派もあった。このテレビに関する議論は未だに満足すべき解決も下されずに年を追うている現状である。

 9 表彰制度


 総ゆる手段を動員して勝利を追求するフットボールの行き方はその勝利チームに賛辞を呈し、また個人的に優秀な選手に対しても最大限の拍手を送った。フットボールの大企業かが進むにつれてチーム、選手に対する表彰制度が次第に確立され、チーム、選手は勝利を目指すことによってこの表彰を意識し、一般観客もこの制度に注目を集めるようになった。チームに与えられる全米最高チーム(National Champion)個人の名誉を示す全米選抜選手(All-America)の制度はその選定に当たる全国的雑誌、新聞の影響力などを考えてもアメリカのスポーツ観に合致し、時流に則するものであった。

 (1)全米最高チーム


 1936年A.P. がスポーツ・ライターの投票によってこの制度を創め、年々全国のチームの力を比較してベスト・テンのランキングを決めたが、そのナンバー・ワンは全米最高のチームと認められている。A. P. 投票以前の1924年から1930年まではリスマン・トロフィ(Rissman Trophy)1931年から1935年まではロックン・トロフィ(Knute Rockne Trophy)が全米最高のシンボルと一般に認められていた。
 近代フットボール以前の古い制度の時代には東部のエール、ハーバード、プリンストン、ペンシルヴァニアらの諸大学がやはり断然強かったが、フォワード・パスが採用され近代フットボールの諸要素が確立されて以後は中西部、西部、太平洋岸の新興諸チームに主導権が渡った形であり、A. P. 投票によるランキングには明瞭にこの分布図が描かれている。全米の各チームはそれぞれの地区の協議会に属してリーグ戦を行っているが、ただひとり名門ノートルダム大学だけはどこの地区にも属さず、独自の立場で各地の強チームとスケジュールを組んでいる。1866年に初めてチームを結成したノートルダム大学は以後1955年までの67年間に432勝、88敗、34分、勝率83.1%という驚くべき成績で断然全米最高の記録を示している。ノートルダム大学についで勝率はエール大学の78.6%、プリンストン大学の77.5%、ミシガン大学の76.1%(以上3校の記録は1952年度までのもの)とつづいているが、勝利総数では古いエール大学が534勝でトップ、試合数最高はペンシルヴァニア大学の759試合(この二つの記録も1952年度までのもの)である。
 

 (2)全米選抜選手


 1889年、キャンプ(Walter Camp)が各ポジションごとに最も優秀な選手を選んで全米選抜チームを作る制度を始めた。キャンプの選考は全国的雑誌「コリアーズ」に発表され、1925年3月14日、彼が死ぬまでつづいた。彼の死後はスポーツ・ライターの最高権威、ライス(Grantland Rice)が後継者となって1947年までは「コリアーズ」のために選考をつづけたが、1948年以後、ライスはフットボール・ライター協会と一しょになって雑誌「ルック」のために選考をつづけた。「コリアーズ」の方は1948年からは全米の有名なコーチの投票によって全米選抜群を選んでいる。
 この全米選抜群のリストも全米最高チームと同様、古い時代には東部の大学のスターがずらりと顔をそろえていたが、近代フットボール以後は、漸時、新興地区にその牛耳を取られている。近代に移って攻守の二交代作戦が一般化した1950年から以後は攻撃チーム・守備チーム両方の全米選抜群を作っている。



第十一章 フットボールの問題点


 1886年以後の20年間に於てフットボールが飛躍的な発展をとげ、1906年のフォワード・パスの採用、1912年の恒久的ルールの採択、1913年のノートルダム大学の快挙によって近代フットボールに歩を運ぶ過程はすでに述べた。サッカー、ラグビーに端を発したこのスポーツはこの時期に於て完全にアメリカ固有のものとなったし、そこに至る生々発展の跡を振り返ってみる場合、フットボールがアメリカ国民性の長短所を如実に反映しながら進んできた事実を無視することはできない。フットボールが大学競技界に於て到達した最高の地位、社会的にも揺るぎないその基盤、熱狂的なファンの支持などはいずれもフットボールの具体面に現れた好現象ということができるが、他面その底に潜む数々の弊害を見逃すことはできない。フットボールの激化がひいては激しい対抗意識を生み出し、あらゆる手段を動員してあくまで勝利を追求するアメリカ的なスポーツ観は随所に混乱を巻き起こし、現在にまで及ぶ根強い悪徳の芽は実にこの時期に蒔かれた。1929年、NCAAの要請によってカーネギー財団が刊行した“アメリカのカレッジ競技(American College athletics)”と題する報告書は大学フットボールの数々の問題点をも明らかに示した。問題とされるこうした弊害を取り除くために教授会、先輩団、学生自身がそれぞれ、また相協議して数々の試みを行ったものだが、いまに至るまで根治することはできない。その第一の根拠はアメリカという国そのもの、アメリカ人という国民性それ自体の中に求められるべきであろうか。

 1 アメリカに於ける大学の発達過程


 弊害を生ぜしめる根本原因の一つとしてアメリカの大学の発達過程が問題となる。1865年、南北戦争の破壊と苦悩の中からアメリカの強力な国家主義が発生し、ひきつづき鉄道、通信の発達などが深遠な経済変革をもたらす根底となってアメリカの驚異的な発展を拓くこととなった。農業と工業が著しく発達し、しかもその経済分野に於ける力関係は次第に工業時代への移行を示していた。この傾向は勢い教育面にも強い反応をみせ、それ以前の智力万能主義は全く影をひそめて全国各地に技術教育のための私立大学がつぎつぎと設立されるに至った。各大学は争って学生を招致しようとし、自校を宣伝する必要に迫られて何らかの特長を持つことを求められた。そしてこの特長を多くの大学は運動競技に求め、中でも最も人気のあるフットボールがその対象となった。大学の経営者は優秀なフットボール・チームを作ることに懸命となり、次第に組織的な企業にまで進むに至って数多くの教育上の弊害を生むに至った。

 2 選手の勧誘と補助制度 


 大学フットボールは激しい競争を伴ない、しかも各大学がひとしく優勝を望んでいるところから優秀な高校選手の獲得に狂奔した。こうして金銭その他の誘引物を提供することによって勧誘や補助の制度が生じた。勧誘を行うものは学校当局、運動部の後援会、先輩団などであり、1890年代にはその不道徳性をとくに隠弊しようとする配慮もなく、勧誘は堂々と行われていた。誘引物は入学後の生活の保障、入学試験の通知、特別な奨学金の授与などであった。金を直接やるのは比較的少なかったが、名目上の仕事に傭ったり、大学選手となれば与えられる社会的な名声、競技上の成功、大学生活の魅力といったものを強調することによって高校選手を惹きつける手段とした。
こうした勧誘、補助の制度は事あるごとに問題となり、教育的見地、アマ規定の面から鋭い批判を浴びることとなった。とくに一流大学に置いてはこの批判的態度を強く打ち出し、フットボールの粛正を叫んだが、しかしそれが一般的に迎えられる可能性はなく、地方のあまり名の通っていない大学ではその時勢からみて得をしても損をすることはないといった見解を取って、こうした不道徳性をますます巧みに隠密裡に実行に移していった。この問題は程度の差こそあれ現在に至るまで根治し得ぬものとして残されている。

 3 高校への影響


   優秀な高校選手を勧誘する争いが激しくなるにつれ、高校フットボール選手それ自体を始め、普ねく若い世代に強い影響を与えた。優秀な選手は大学入学以前からすでに大学選手たるの許可と生活を与えられ、一方無名選手は自己を有利に売り込むため宣伝屋を利用して各大学に通信させるような売り込み運動も行っていた。
 高校の競技様式は種々の面で大学フットボールにならい、しかも高校には選手資格やスポーツマンシップの基準さえなく、教師、校長、守衛でもすべて学校チームに参加することができた。その他フットボールのシーズンだけ学校に通う選手もいた。こうして大学フットボールは直接高校選手に不正な働きかけを行ったばかりでなく、それ以上に若い世代の精神面に強い影響を与え、誤まったスポーツ観を惹起せしめるに至った。1890年代から高校に反映した大学フットボールの悪影響は1920年代に全国高校組織が確立されるまで約30年近くもつづいた。

 4 商業主義


 大企業化したフットボールは確固たる機構をもって運営されてゆく。学校当局は特殊なフットボール選手の立場を是認し、チーム強化のために積極的な政策を惜しまなかった。スタジアムがどんどん建ち満員の観衆がつめかけるために、儲かる企業としてフットボールの商業主義的な色彩はますます濃くなる一方であった。時代の推移によって大戦の影響、好況、不況の波などに多少左右されることはあってもフットボールの進む道が大学競技というワクを遙かに凌駕する傾向を抑えることはできなかった。
 選手は職業コーチの意のままに動き、チームの活動形式に於てはプロの機構と何ら変るところはなかった。チームを強くし優秀な成績を納め得るコーチはその手腕のゆえに高額の報酬を受け、全国的に著名なコーチの中には大統領級の年俸を受ける者もあった。コーチに報酬の多寡があり、成績の不振を問われて一方的に解雇される実状など、企業としてのフットボールの一面を示すにほかならなかった。選手の具体的活動を円滑ならしめるために諸設備、用具は全て完備され、勝利という目的達成のためには莫大な費用を要した。経済的にバック・アップされたフットボール選手の生活態度は派手に流れがちであり、優秀な選手に与えられる輝かしい評判の数々は選手自身にとっても、また大学当局にとっても堕落へ陥る一つの原因ともなった。
 こうした環境に於て作り上げられたフットボール・チームは単にスポーツそれ自体を楽しむためにプレーするというよりは、大きな機構の中で一つの見世物としてフットボールを行っているという印象をますます強くするばかりであった。最近のアメリカ・ニュース映画に写されるフットボール・シーンもこのことを明瞭に物語っている。少数の選手が猛烈に戦い、数万の観衆がこれを取り巻く。それに派手な応援合戦の様相などをみても完全にショー以外の何ものでもないといわざるを得ない。新聞、ラジオ、テレビが与える影響もまた甚大である。フットボールの人気を考えた場合、商業的マス・コミの世界にとって、それは恰好の好材料であり、互いに商業主義の渦中にあって密接な相関関係を持っているものということができる。大学フットボールのプロフェッショナリズム(professionalism)は競技それ自体の激化に伴なう自然の勢であったかも知れない。ややもすれば極端に流れがちなその内容はしばしば批判の的ともなったが、アメリカの国民性にはその商業主義的内容を支持してやまぬものがあるようにさえ感じられる。
 大学当局はフットボール試合の利潤によって学校経営をまかない、さらにより大きな利を求めてチームに投資する。フットボール選手に金を与えることを是認する大学の論拠は単純ながら明瞭な観点に基づいている。その第一は試合をして利潤があれば働いた者に分け前を与えるのが当然であるという考えであり、第二はどんな名目にしろ選手に経済的援助を与えて実質的な雇傭関係を持つ方が賢明であるとの意図である。この論点に反対する学校ももとより多くある。そして奨励金制度の非合法化を規制する試みや申し合わせが何度か決定されたにもかかわらず、あくまで形式の域を脱せず、実質的な学生スポーツとしての理想は求むべくもない。大学フットボールはあらゆる面に於て金銭と切り離して考えることはできず、プロにつきものの賭けが常に問題とされるのもまた当然の帰結である。純真であるべき選手自身が八百長に加担するといったスキャンダルは年々その跡を断たない。

 5 選手生活の内容


 大企業の真只中に於て選手は最も重要な商品である。選手となるそもそもの始めから密接な経済関連に於てチームとつながる大学選手は一躍して自分のほとんど知らない基金から支出される費用で生活するという全く未知の生活水準に飛び上がることになる。彼らは大学内でも特別な存在として認められ、その生活のすべてはフットボール技の上達に向けねばならない。学生として第一義であるべき学問的探求はほとんど無視され、全時間を選手生活のために提供する。彼らはコーチの命ずるままにフォームとスタイルを改良し、策戦の綜合を完璧に実行に移すため継続的なトレーニングと厳しい訓練に服さねばならないし、相手を目の前にして決断と勇気を発揮できることを証拠立てねばならない。このため“肩幅が廣く頭蓋骨は雀のような”と皮肉な形容詞を与えられるフットボール選手が出現する。その精神生活は堕落に陥りがちであり、練習の激しさが健康をそこね、試合の激烈さが数数の障害を生む点も等閑視されず、個人的なフットボール選手それ自体にも考慮すべき多くのものが含まれている。

 6 卒業生の影響


 大学競技に卒業生が影響力を持つようになったのは競技それ自身の急激な発達と密接に関係する。とくに大学フットボールに対する卒業生の関心は1890年代以降の飛躍的発展期に於て著るしいものがあった。フットボールの拡大に伴ない必要経費が途方もなく増大し、やむなく特別の財政援助を卒業生に求めるということが始まった。そして卒業生はその返礼として競技自体を支配し、また次第に学校行政にすら関与する傾向をも示した。こうした卒業生の態度は感情的には愛校心に多く基づくものであり、一面社会的名声、青年層に対する奉仕の精神といった基点に立つものもあったが、経済援助によって競技支配に発言力を持つという相互関係は最初は当然の取引だとみなされていた。
 19世紀末年には大多数の教授会の競技に対する態度は放任主義的なものであり、時に競技支配を考えることがあってもその結果は取るに足らぬものであった。このため卒業生のうち、この問題に積極的な関心を抱いている者がほとんど労せずして競技の支配権を得た。そしてあくまで勝利を求めてやまぬ傾向が強くなるにつれ、卒業生自身、学校当局の意向を無視してチーム強化のための高校生獲得に積極的に乗り出すといった動きが濃くなっていった。こうした卒業生の在り方はやがて学生スポーツの立場から次第に批判の的となってきた。

 7 放浪選手、偽名選手


 アメリカの大学では初期のころからヨーロッパ流の大学組織をそのまま採用し、ある特別な学生がある一つの科目に登録することによってその大学で堂々と資格を得ることができた。ヨーロッパに於ては純粋な学問的探求のための方策とされたこのシステムは、逆にアメリカの競技熱に利用される形となった。1890年代から1905年ごろにかけて放浪選手並びにその同類たる偽名選手が大ていのフットボール・チームに姿を現したのはこうした大学組織に便乗したものであった。そして経済的に恵まれた有力大学は小さな大学の優秀選手を引き抜くために毎年勧誘運動を行うのを普通の慣例とした。選手の引き抜きは勿論金銭と直接のつながりをもち、優秀な選手のトレードはファンの大きな関心事ともなった。この問題は1912年、ビッグ・テン協議会が初めて選手資格を厳正にする規定を取り上げたことから漸く改革の道が開かれ、その存在をなくすることに成功した。選手資格規定の中には選手期間は4年に限るとの制限、最低の学科履修を必要とする規定、一年間学校に留まるという意思の表明、転学した場合には一年間在学したのちに選手たるの資格を得るという規定などが含まれていた。

 8 NCAA


 以上の種々なる問題点を解決するために中心的な機関となったのは全米大学競技協会(NCAA)である。NCAAは1905年、フットボールが存続か廃止かの二者択一を迫られる最大の危機に直面した時に設立されたアメリカ大学対抗競技協会が5年後に改称されたものである。NCAAは最初から法的、執行的統制力を持たず、単に一教育団体として活動したに過ぎず、大学競技の運営は個々の大学当局の手にあったのである。そしてNCAAでは西部の大学競技協会に類似した最小限の選手資格規定を採択したが強制的方法は取らなかった。しかし時の経過とともにNCAAの存在は次第に強大なものとなり、事実上アメリカ大学競技を支配するほどの力を持つに至っている。
 NCAAがアメリカの大学競技、とくにフットボールに及ぼした影響を分析するとつぎの5項目が取り上げられる。
 (1) 教授会による統制
  19世紀末に見られた競技統制の方法には三種類の型が識別された。その第一のものはハーバード大学に於てみられた高度に中央集権化した型で、その中に教授会、卒業生、学生の三者が協力して三部門に別れたものであった。第二のものは西部と南部で多くみられた二元計画の型であり、教授会と学生が義務を分担するものであった。第三に東部の古い大学、エール、プリンストンなどでみられたものは競技統制のすべてを学生の手でやり、時に卒業生の影響を受けることはあっても教授会の干渉がほとんど行われないというものであった。
  こうした三者三様の方式をもって進んできた大学競技に対しNCAAは教授会による統制を擁護し、このことは学生および卒業生による統制から切り替えさせる要因となった。教授会自身も大学は学問の場であるべきという信念から散発的ではあっても絶えずこの問題に対する関心は伸展されつあったし、体育教師の地位の向上、心身両面の教育といった観点から競技統制に真剣な眼を向けるようになっていった。
 (2)協議会の発達
  NCAAの設立の年、1910年には38大学が加盟したが、NCAAは加盟校間に新しい協議会を結成することをつねに奨励した。1906年から1915年までに29の協議会が結成され、とくに中西部で盛であった。これらの協議会は加盟大学のすべての競技を規制するものであり、中西部、極西部、南部では順当な発達をとげたが、東部では競技ごとの伝統的な協会を固守する態度は依然消えやらなかった。
 (3)シーズン中だけのコーチの排除
  1892年、新設のシカゴ大学では正規の体育助教授としてエール大学を出たスタッグを迎え、1901年には教授の地位に昇らせた。それまでのコーチといえば学校とのつながりはなく、単にシーズン中だけ技術的な指導を行うのがほとんどであったが、このシカゴ大学の英断は大いに他を啓蒙するのに役立った。そして1910年NCAAは常勤教職員として専任のコーチを置くことを奨励する決議を行った。
 (4) ルール委員会の設置
  NCAA発足以来の重要な仕事の一つは各種スポーツのルール委員会の設立であった。この仕事はアメリカ競技協会、YMCA、州高校競技協会全国連合、カナダ体育協会の協力のもとで行われた。大学スポーツのルール統一は1921年の陸上競技に始まり、NCAA主催の各種スポーツの全米選手権大会計画の樹立に影響を及ぼした。フットボールはその内容からいってトーナメント試合の設立は不可能であり、その面に関しては独自の立場を取らざるを得なかったが、NCAAによって統一されたルール委員会がつねに指導的立場に立って現在に至っている。
 (5) 競技拡大に伴う弊害の公知
  1926年、NCAAはカーネギー財団に大学競技の調査を要請した団体の一つである。1929年に刊行された“アメリカの大学競技”と題するこの報告書は選手の勧誘やプロフェッショナリズムの容易ならざる実状を暴露した。その内容は上記の諸点に及んでいるが、このことは競技界、とくに大学フットボールの悪弊を公衆に知らせるのに大いに役立った。しかし実状を改めるという段になるとまだまだ道遠く、その可能性のほどさえ危ぶまれるものがあるといわねばならない。
(昭和34年2月)
参考文献
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Frank G.Menke,The Encyclopedia of Sports,1953
The Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching,American College Athletics,1929
H.O."Fritz"Crisler,Modern Football,1949
Knute Rockne,Coaching,1925
加藤橘夫訳、ヴァン・ダーレン、ミッチェル、べネット共著「体育の世界史」昭和33年
加藤橘夫著「スポーツの社会学」昭和27年
木村松代、原田のぶ、原元子、藤井千代、伊藤みえ共訳、J.T.アダムズ著「米国史」昭和16年
山中良正著「アメリカスポーツ史」昭和35年
近藤等訳、ベルナール・ジレ著「スポーツの歴史」昭和31年

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