関西学生リーグ全体のレベルアップが進む。関学の相対的な地位が下がり
始め、京大、同大、近大が多きな脅威となってきた。昭和24年から続けて
きた連覇の記録はついに「33」でストップした。リーグは混戦の時代を
迎える。関学は挑戦者魂を取り戻し、身を賭して新しい道を模索し始めた。


2年連続のプレイオフ。薄氷踏む思いの関西リーグ制覇

 関学は関西リーグ30連覇という偉業を続けていたが、その戦いぶりは急速に苦しいものになってきていた。独走を楽しんだ季節は過ぎ、実力伯仲の戦国時代へ。先人たちが築き上げてきた輝かしい伝統を背負って、文字通りの「苦闘」が始まる。
 昭和54年、久しく空席になっていた監督に、森下征郎(昭和42年卒)が就任。対外的な仕事を引き受け、広瀬助監督、伊角ヘッドコーチらが現場での指導に専念できる態勢を整えた。しかし、リーグ戦では、すでに関大に敗れていた同大に7−12で27年ぶりという敗戦を喫する。同率優勝に持ち込み、プレイオフで35−0と雪辱を果たしたが、薄氷を踏む思いの連覇だった。
 戦力均衡の傾向は翌55年も続いた。夏に21日間という長期合宿を張って臨んだリーグ戦。近大に24−14で逆転勝ちしたものの、すでに2敗していた京大に28−35と競り負け、近大と同率優勝で2年連続のプレイオフに。試合は残り2分を規って31−27と追い上げられ、ついに25ヤードの逆転TDパスを通された――かに見えた。しかし、近大のTDはクリッピングの反則で“幻”に。前年以上に苦しんで甲子園ボウルの出場権を獲得した。  この2年間、甲子園ボウルでは日大に大敗を喫した。54年は0−48、55年は7−42。プレイオフで力を使い果たしてしまった感はあったが、それ以上に選手個々のスピード、パワー、技術に大きな差があったことも事実だった。


実力伯仲の危機感のなか、京大に大勝。甲子園ボウルは届かず

 関学のチーム力が相対的に低下した理由はいくつかあろう。かつて関学は他校に比べてアドバンテージを持っていた。そのひとつが、中学・高校・大学の“一貫教育”だった。今ほど底辺が広がっていなかった時代に、一定のレベルに達した経験者が確実にある人数だけ入部してくるということは、大きな強みだった。しかし高校のチームが増加すると、各校とも経験者が増え始めた。同時に未経験者でも運動能力の高い選手が集まるようになっていた。フットボールの人気が高まるほどに、関学の優位性は薄まった。
 さらに大きな財産は、武田建・元監督らが本場米国から直輸入した合理的な練習法と、卓越した戦術だった。広瀬、伊角らコーチ留学経験者が新しいものを加え、、研磨し、補強した。系統だてられたパス・アッタク、ワンバック体型、モーション、オフセット守備‥‥‥。コーチ陣が豊富な知識から選択した作戦は、そのつど対戦相手をパニックに陥れた。他校も苦汁をなめ、研究を重ねて差を縮めていった。
 それでも昭和56年は光明が見え始めた。伊角ヘッドコーチが取り組んできたライン強化が実を結び始める。加えて、高等部から優秀な選手が次々にファイターズの仲間入りをした。「大学を強くするにはまず高等部から」と武田建・元監督が高等部の監督に就任したのが2年前。その指導のもとで高校選手権2連覇を果たしたメンバーが下級生にそろった。秋のリーグ戦も好調に勝ち進み、京大と全勝同士の対戦に。京大も低迷期を抜け出し、3年生ながら千ヤードラッシャーに成長したRB松田を中心に、大量得点で勝ち抜いてきた。その力強さに新聞も「やや京大有利」の予想を載せていた。しかし、この危機感が結束力を高め、48−0という大勝で甲子園ボウルに駒を進めた。
 対戦相手の日大は大量に卒業生を出したうえ、4年生がわずか5人という苦しい陣容だった。しかし、関学はまたしても赤い壁にはね返された。0−14、14−21、21−28、31−35、そして31−42。日大は大一番でQBに抜擢された2年生横瀬が正確なパスを投げ続け、関学の追い上げを振り切った。共同通信社に勤める丹生恭治(昭和32年卒)は、タッチダウン誌に次のように記している。「関学が希望に燃えたのと同じくらい、いやそれ以上に日大には危機感があった。関学は日大の力を少し軽く見積もった。‥‥‥というよりは、日大は京大や近代とは違うチームだったという認識が十分ではなかった」


京大の気迫の前に、痛恨の惜敗。33連覇で止まる

 甲子園ボウルの惜敗を糧に、昭和57年は「日大を倒して日本一」を目標に見据える。監督に滝悠喜夫(昭和43年卒)を迎え、新布陣を組んだ。しかし、チームは伸び悩み、苦悩が部全体を覆っていた6月、部員の一人が女子大生の下宿に忍び込み、住居侵入で西宮署に逮捕される事件がおきた。練習、対外試合の自粛を決め、明大との定期戦を辞退。練習の再開は体育会の決定に基づき、8月1日からとなった。
 リーグ戦は前年と同じく京大との全勝対決になった。関学は甲子園ボウルを意識し、あえて例年行っていた合宿をせずに試合に臨んだ。しかし、京大は前年の京大ではなかった。春の対戦で、4年生が頭部を負傷し、そのまま帰らぬ人となっている。厳しい気迫に押され、前半17−0とリードを許してしまった。後半もQB小野のパスが思うように決まらず1TDを返しただけで痛恨の敗戦に。リーグ33連覇を続けていた牙城はあっさりと崩れていった。
 34年ぶりに挑戦者の立場に立った昭和58年。関学は攻守ラインのほとんどが卒業してしまった。京大は逆に大型ラインが残った。パワーの差は否めない状況の中で、関学はパス中心の攻撃体型「ショットガン」を採用する。I体型から、宿敵日大の代名詞になっていたフォーメーションへ。そして、秋は再び京大との最終戦全勝対決。だが、QB小野を負傷で欠き、前半14−30とリードされ、後半追い上げたものの、終了間際の2点コンバージョンに失敗、28−30で2年続けて涙を呑んだ。


不敗の“関学神話”に、過剰な自意識がなかったろうか

 2年続けて京大に敗れたことは、関学に計り知れないショックを与えた。敗因を探るとき、試合の局面ごとに見れば、いくつもの個人的なミス、能力不足が出てこよう。しかし、本質的な問題は、チーム一人ひとりの内面に潜んでいたように思う。関学はリーグ戦を勝ち続ける間に、その輝かしい伝統とともに負の遺産とも言うべき澱のようなものを体内に沈殿させていった。
 2試合に共通する点の一つは、最高の精神状態では臨んでいなかったことがあげられる。57年は、前年に不利といわれながら48−0と大勝して迎えた年である。58年にしても、春に58−14の大差で勝っている。油断などするべくもないが、「本気でやれば‥‥‥」という心のスキ間を埋めきれなかった。当時の部長である領家穣・元社会学部教授が事あるごとに口にしていた「無心になったときが、人間一番強いんじゃ。そのためには、『負けてもともと』になりきることや」という教えは生きなかった。“関学神話”などともてはやされている間に、「不敗」の幻想を選手が無意識に信じ込むようになっていた。領家部長の言葉を借りれば、「相手が勝手に負けてくれた試合がいっぱいあった。それをみんなが『勝った』と思い込んだ」のかも知れない。総合力で他校とは大きな開きがあった時期はまだしも、チーム力が均衡してきたにもかかわらず、関学はなお「最後は必ず勝てる。負けるはずがない」と、過剰な自意識を持っていた。それも正確な分析に基づいていたわけでもなく、根拠のない、漠然とした楽観とでも表現するべきか。強かった時代の気分だけが濃厚に部内に居座っていた。


選手の依存心。選手とコーチの関係をめぐる悪循環

 さらに、選手の内面に踏み込むため、事例をあげたい。57年の不祥事の際、部活動を無期限停止にしてミーティングが連日続いた。その1回目に、「現在のチームをどう思うか」について全員が意見を述べている。当時のノートを見ると、「練習をやらされている」「勝ってもうれしくないし、負けてもくやしくない」「過保護な子供のような状態。部員に自主性がなく、無責任」‥‥‥。自らの受身の姿勢への怒り、コーチと選手の関係、チームのあり方の根本についての反省が噴き出した。
 デリケートで難しい問題だが、それを乗り越えなければ、目指すチームになり得ないことも分かっていた。しかし、これらの問題は、結局何も解決しなかったように思う。危機的な状況をだれもが肌で感じながら、抜本的な改革には二の足を踏んだ。「今までのようにコーチの言うとおりにしていればリーグでは勝てる」という幻想が頭のどこかに宿っていた。危険をおかしてでも土台から自らの手で造り替えようとするチャレンジ精神は希薄だった。自主性に欠けてくるのは当然の帰結だろう。コーチへの精神的な依存度が増すほどに、不安を募らせるコーチは、選手の内面まで入って無理やり引き上げようとする。それが、さらに選手の自主性を奪う悪循環。
 足りなかったのは、新しい時代の関学を作ろうとする進取の気象ではなかったか。勝ち続けるうちに、いつの間にか守りの姿勢を見につけた関学は、自主性、創造性といった核になるものが溶け出していたのかもしれない。


リーグ初の延長戦。近大を退け、日大と優勝を分ける

 木谷直行(昭和32年卒)が新監督に就任した昭和59年のリーグ戦は、混戦状態に戻った。関学は前年リーグ5位の近大に7−14で苦敗を喫し、近大も大体大に敗れたため、同率優勝で4年ぶりのプレイオフに。試合は初の延長戦にもつれ込み、関学はQB縄船が第5Qに菅野、堀古に続けてパスを決め、何とか逃げきった。
 3年ぶりの甲子園ボウルは“赤と青”の伝統のカード。関学は常に先手を取る展開に持ち込んだ。1年生QB野村のオプションを軸にして前半14−14。第4Q残り1分37秒で34−42とされたが、関学は70ヤードのドライブをして、残り4秒でQB縄船からWR菅野にTDパスが通った。TFPはQB野村がスクランブルできわどく成功させ、引き分けながら7年ぶりの優勝を手にした。ライスボウル出場権を決めるコイントスは負けたが、選手の顔には燃焼しきった満足感が漂っていた。


8年ぶりの単独優勝。ライスボウルは、レナウンに惜敗

 翌昭和60年、関学はついに8年ぶりに単独学生日本一に輝く。京大との全勝対決は、前半リードを許したものの、後半に逆転して20−18と粘り勝ち。甲子園ボウルは春の定期戦で0−56と完膚なきまでにたたきのめされている明大との対戦になった。
 関学はQB芝川が堀古、牧野、前田、下村、真弓といったレシーバーに正確なパスを投げ分け、66回中44回成功させて675ヤードを稼げば、明大も吉村が縦横無尽に駆け回り、41回で237ヤード、5TDのラッシュを見せる。そして、48−46を迎えた試合終了6秒前。関学ゴール前3ヤードから明大は吉村のFGに勝利の望みをかけたが、ボールはわずかにバーの右側にそれ、関学のV2が決まった。「最後はお祈りしていただけ」という木谷監督の言葉がチーム全員の心情を代弁していた。
 年が明けて1月3日の第2回日本選手権ライスボウルは、レナウンが相手だった。守備ラインの激しいラッシュに芝川のパスが思うように決まらず、逆にレナウンは日大出身のQB鈴木、松岡が自由自在に動いて第3Q中盤までに7−45とリードされてしまった。ここから5TDを立て続けに奪って3点差まで詰め寄ったがタイムアップ。無念の敗戦を喫した。


京大QB東海の前に2年連続覇権を奪われる

 昭和61年は前年に引き続き芝川を軸にしたショットガンで臨んだ。春の日大定期戦にも勝つなど、甲子園ボウルV3へ突き進むように見えたが、リーグ戦で京大に7−35と思わぬ大敗を喫してしまった。京大は1年生からQBとして注目されていた東海が3年目を迎え、プロI、ワンバック、ウィッシュボーン、アイランドとさまざまな体型を使った。関学守備陣は浮き足立ち、試合のリズムを取り戻せないまま、予想外の結果となった。
 昭和62年、武田建高等部監督が12年ぶりに大学に戻って総監督に就任した。しかし、QB東海と強力ラインが健在の京大は、またも関学の前に大きな壁となって立ちはだかった。甲子園ボウル出場をかけて3年連続の全勝対決に。前年の雪辱を誓う関学は、劣勢が予想されるなか、一丸となった戦いを見せる。1試合平均60得点という京大の攻撃を最小限に抑え、第3Qには溝口からのストーリークパスを甲木がジャンプ一番飛び込みながら指先でつかみ、14−17まで追い上げた。だが、地力の差はいかんともしがたく、QB東海の独走TDを許して力尽きた。


リーグ大混戦を抜け出し2年連続の甲子園ボウル。日大の壁は厚く

 パワー不足を痛感した関学は昭和63年、5年ぶりにI体型を攻撃の中心に据えた。リーグ戦は波乱の連続となり、京大が初戦で神大に敗れ、関学も同大に1点差の惜敗。その同大は、立命館に完封負けを喫するねど大混戦になった。そして、やはり最終戦の関京戦が優勝決定戦に。この試合、関学はランに徹する。全攻撃回数62階のうちパスは10プレーのみ。大型QB埜下のオプションを軸に、一貫したボールコントールで17−12で粘り勝った。
 甲子園ボウルは宿敵日大との対戦。がっぷり四つに組み、前半は14−14。しかし、第3Qに分岐点が訪れた。日大はショットガンから16回ランを続けてTDを奪い、さらに次の攻撃もランを繰り返して最後はRB山口がエンドゾーンに。関学にはこの14点が重くのしかかり、RB橋本の60ヤード独走TDなどで追い上げたが届かず、涙を呑んだ。
 関西のレベルアップが年々進んでくる。平成元年、関学はもがきながらもリーグ戦を勝ち抜いた。2部から昇格したばかりの甲南大に10−0の辛勝からスタート。神大と3点差、近大と8点差、同大と4点差、立命大と8点差、そして、京大とは3−3の引き分け。チーム成績を見ても攻撃部門で7位、守備が5位。全員の執念で2年連続の甲子園ボウル出場をつかんだ。
 決戦の相手は24回目の対戦になる日大。圧倒的な不利を予想された関学だが、守備の健闘で、7−14の僅差で折り返した。しかし、後半は日大のQB宇田川にパスを立て続けに決められ(成功率78%)、一気に離された。
 平成2年、創部50周年を前にして関学は関西リーグ6位という思いもよらぬ凋落を見せる。その前途は如何に。