11年ぶりの甲子園ボウル制覇の悲願達成に始まり、史上初の5連覇の偉業樹立
に至る、この昭和41年から53年までの13年間は、関学にとって最も充実した時期で
あった。王座に君臨すること8度。だが、そればかりではない。関学が日本のフット
ボール界を、将来あるべき方向へ導いた時代、としても記憶されるべきであろう。


活性化する国際交流。そのリード役となった関学フットボール

 「いざなぎ景気」の真っただ中から始まる第二期黄金時代は、スポーツ界での国際交流が急速に活発化していった時代でもあった。とりわけ、東京、札幌の二つの五輪大会、万博、変動相場制による円の切り上げなどが引き金となって、日本選手の海外遠征、海外一流選手の来日が絶え間なく続くようになった。
 フットボールもこの流れの中で例外ではなかった。いや、そればかりか、この時期の後半には想像もしなかったブームが起きた。その中心に腰を据え、技術面で日本のフットボール界をリードしたのが関学であった。


情報基地、関学。各チームも積極的に本場の理論を導入

 米国生まれのスポーツでありながら、日本のフットボールはこの時期に至るまで、本場との交流が極めて少なかった。戦争による中断からの再建、普及に努力は重ねてきたものの、その足どりはゆっくりしていた。知識の吸収、技術の習得は在日米軍、ミッション学校の宣教師、数少ない洋書などからにとどまっていた20年が過ぎた。
 その時代が大きく変化した。次々と条件が整い、急速な前進が始まった。関学はこの流れの中にいた。チームづくり、組織づくり、相手の戦力分析、戦法、用兵、プレーの選択。どれをとっても当時の水準を一歩も二歩も超えていた。それまでの日本のチームになかった、システマチックなフットボールの登場であった。
 主役はいうまでもない。武田建である。米国留学の余暇に見聞きし、読み、習いためた豊かな知識を帰国するや関学へ注ぎ込んだ。その指導方針は、たちまちチームに浸透した。本場の押しつけではなく、日本の実情と水準にあった適切な手直しがされていたからである。選手の側にも、より合理的なフットボールへの欲求が、他のチームにも増して強かったからでもある。
 本場との交流が46年のユタ州立大来日を糸口に本格化すると、武田はその翻訳者として、解説者として、さらに講師として貴重な資料を日本のフットボール界に提供するようになった。目の前に展開する米国チームのプレイは、関学を通して、つまり武田を通して多くの部分が消化吸収されていった。いわば下地がすでにできていた関学は、本場のフットボールの情報基地であった。
こうして本物の理論を身につけた関学が実績を上げるのを目の当たりにした各チームは、やがて積極的にこれを取り入れ、チームづくりの指針とするようになった。関西では京大の急上昇がその好例である。


11年ぶりに全国制覇。西宮・ライスと3大ボウルを制す

 昭和41年は春の西日本大会で、関大に引き分け、抽選負けを喫する。秋の甲子園も日大に遠く及ばなかった。しかし、やがて好況が来る。
 甲子園ボウルで11年ぶりの勝利を味わった昭和42年、関学は春から好調であった。伏線として1月のライスボウルの予想外の勝利をあげねばなるまい。奥井が滝、相馬へパスを投げまくって前半で大量リード。日大勢に切り換えた東軍の猛反撃をかわして34-30で逃げ切った経験が大きな自信となって表れた。選手もそうだが、誰よりも武田ヘッドコーチ自らが確信を持って指導に当たるようになったのが大きい。
大勝、快勝が続いたこの春、日大との定期戦に22-20と競り勝って31年以来の白星を挙げ、関学勢主力の西宮ボウルでも日大勢の東軍に26-12と快勝して、秋への期待を膨らませた。リーグ戦は終盤、京大と関大に食い下がられたものの、順当に6戦全勝した。
 甲子園は山口を軸とするラインが健闘。奥井、広瀬から滝、芦田らへのパス、遠藤、棚田、三重野大らのランと、持ち味をフルに発揮して快勝した。特に第4Qに遠藤が挙げたとどめの2TDは、チームの様変わりを物語るものだった。この精鋭を主力にライスボウルも18-8で制し、三大ボウルもまた11年ぶりに関西が独占した。


明大と演じた死闘。辛くも甲子園ボウル2連覇を達成

 「和」を掲げて関学に栄光を取り戻した徳永に代わり、43年には闘将鳥内が監督に就任、武田体制を支えることになった。滝、遠藤らの抜けた穴が大きく、春は好不調の波が目立つチームだった。前年72-0と完勝した明大に、0-22と完封負けを喫した。しかし夏合宿でチームは一変した。秋は前年を上回る安定した戦いぶりで、難なくリーグ20連覇が達成された。
  社会は好景気のひずみが環境問題となって現れはじめ、同時に大学紛争も激化をたどっていった。日大もその波をかぶり、後年低迷期の時代を迎えている。この年、関東では明大が、QB桜田を軸に村山、岩間、迫田を擁してオプション攻撃を完成。21年ぶりの優勝を飾った。
 甲子園での、この明大との初対決は、歴史に残る試合の一つといえよう。関学はQB広瀬の2TD を先行したが、明大オプションの猛反撃を受けて、四転、五転する大激戦。最後は松村が挙げたTDを辛くも守り切って38-36と、2年連続の全国制覇を遂げた。この死闘を評して、武田は「関学がリードしているときに、試合が終わったに過ぎない」の名言を残した。


大学紛争の混乱の中、守備のシステム化を課題に、マイク氏をコーチに招く

 攻撃には自信を深めたものの、守備の強化が次の課題としてクローズアップされた。特に明大の深い位置からのオプションに手を焼いた体験は貴重だった。
 44年1月の東大安田講堂の攻防に象徴される大学紛争は、この年関学にも波及した。混乱が続く中、チームづくりの苦労が続いた。武田は42年の主将滝、43年の荒井ら若いOBをスタッフに入れるとともに、米国から友人でサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのコーチを務めていたマイク・ギディングス氏を招いて、システム化の充実に力を注いだ。OB会も組織作りに積極的だった。
 春は明大に6-6、日大には26-26といずれも引き分けたが、西宮ボウルでは明大勢の東軍を44-6と退けて、オプション封じの成果を得た。秋のリーグ戦も一頭地を抜くパス力で大量点を重ね、6試合で2TDを許しただけという守備力も注目を集めた。
 しかし甲子園では、日大の強力なラインに攻守とも圧倒された。特に中央部で暴れ回る湯村を抑えきれず、広瀬のパスは威力をそがれて14-30と完敗した。


無敵の技術集団誕生。高等部は、第一回フットボールの覇権獲得

 45年、関学フットボールはこの年、見事な花を咲かせた。監督には熱血漢芳村が就任し、春こそ明大に黒星を喫したものの、徐々に力を伸ばして無敵のチームが出来上がった。
 武田の、選手の能力に合ったチームづくりは軌道に乗っていた。郡を抜く技術集団が完成し、それをQB広瀬、WR野木、RB松村、三重野らがリードして理詰めの試合運びを披露。8校となった秋を難なく乗り切った。
 一方関東では加盟校の急増に伴い、並列5リーグ制への移行があった。ここで日大が有力な東京六大学グループから締め出された。日大はそのうっぷんを晴らすかのように、関東選手権で明大に大勝して甲子園へのコマを進めた。だがこの年の関学のスピードと技には歯が立たなかった。
 関学は三重野のランと広瀬のパスで一方的に試合を進め、守っても志村のインターセプトでTDを加え、34-6で快勝した。この年は高校でもタッチフットボールから正規のフットボールへの移行があり、その第一回の選手権は関学が獲得した。
 理論と技術で頂上を制したものの、大学スポーツの移り変わりは激しい。広瀬らの去った46年、関学は直ちに次の地固めに取りかかった。武田は本業の研究と充電を図って休養を取り、チームは滝コーチに委ねられた。
 武田邦、岩崎、志村ら4年生を軸にした懸命の努力が積み重ねられた。他にはまだなかった理論や技術の蓄積にものをいわせて、関西での苦労はなかったが、甲子園では日大のたくましさの前に刀折れ、矢尽きた。二転三転の好ゲームの末、佐曽利のパスに決勝TDを許して22-28の涙をのんだ。
 この頃、先にも述べたように、スポーツ界の国際交流も活発になった。46年12月のユタ州立大の来日、翌年度はハワイ大、次いでウェークホレスト大と本場からの来日が続いたが、これらを強化の好機としてフルに活用したのが関学だった。チームドクター杉本さんの名が甲子園ボウルのプログラムに登場したのも46年である。


後期「武田時代」始まる。“四天王”と呼ばれた頼もしい守備陣

 47年、武田が復帰した。「武田時代」の後期の始まりである。本人は監督という名称を嫌ってヘッドコーチと称していたが、前期と違ってOBとのパイプ役を務める監督はもういなかった。チームは若かった。主将伊角を支える上級生は少なかったが、前半の関学高のハワイ初遠征組が大量に入ったのをはじめ、1、2年生には翌年からの5連覇の礎を築いた逸材がそろっていた。
 甲子園では初登場の法政大の力に圧倒され、川口の豪快な総力に1年生QB玉野のパスも及ばず、20-34で屈した。しかし未来は明るかった。新しい関学が生まれようとしていた。
 またこの年、ユタ州立大のチャック・ミルズ監督の下へ、広瀬がコーチ修行に旅立った。次の時代を担う指導者養成のための、米国留学制度の第一歩だった。後には伊角らが続いた。
 技に力が加わった時代の幕が上がった。主将豊島が率いるチームは万田、玉野、西村英とタイプの異なる3人のQB、レシーバーに前谷、小川、RBに柴田尚、谷口といったタレントが豊富だった。が、それにも増して頼もしかったのが、“四天王”と呼ばれて攻守に活躍したラインの小寺、神木、前川、松田の面々だった。
 48年、関学は春から一戦ごとに力を伸ばし、圧倒的な力で秋も勝ち進んだ。甲子園ボウルは24-7で日大に快勝した。柴田尚、谷口のTD、村田のFGを重ねた末、第4Q万田−田中のパスでとどめを刺したが、この後試合終了までボールコントロールに徹した武田の手堅い采配ぶりが印象に残った。


京大の台頭で関西リーグ2強の時代始まる

 武田監督の手堅い采配は、実はリーグ戦最後の京大戦の方が先だった。コロラド鉱科大から戻った水野氏をコーチ陣に加えた京大は、この頃から急速に力を伸ばし、関学の足元を脅かす存在になっていた。それに真っ先に気づいていた武田監督は、17−0と退けた時点で慎重な姿勢をとったのである。
 翌49年、この京大はウィッシュボーンを導入、QB中川のトリプルオプションが威力を発揮した。関学は、前年のメンバーがほとんど残り、試合は連戦連勝。秋のリーグ戦は京大と互いに土つかずで顔をあわせたが、関学に一日の長があって、24−0と快勝した。かつては甲子園のみが唯一の目標だったが、今や甲子園に出るにはその前に京大を倒さねばならない、という時代が来たことを指導者も選手もひしひしと感じていた。
 日大を迎えた甲子園は、前半もたついてリードされたが、後半に地力を発揮。玉野−小川の2本のTDパスで21−20とリードした後、谷口のTDで差を開き、28−20で連覇を果たした。この好ゲームで注目を集めたのがHB石田。鮮やかな動きと判断力で日大QBのパスを再三インターセプトし、パス防御の重要性を印象づけた。
 戦後の部再建以来、精神的支柱として部員を指導された大月教授は、この年を最後に部長を退かれ、50年からは領家教授を迎えることになった。
 49年、ボブ・ヘイズの来日で、フットボールブームは一段と盛り上がり、51年1月の米学生東西対抗のジャパンボウルでは国立競技場に満員の観衆が詰め掛けた。


連勝記録145で止まる。史上初のプレイオフで、京大に雪辱

 関学は日本のフットボール界では常に注目される存在となっていた。しかし50年は四天王の半ばが去り、しかも後ろから京大の迫り来る足音が聞こえていた。関西での孤高の時代は終わろうとしていた、秋のリーグ戦最後の京大戦は、事実上この年の日本一決定戦といえた。
 関学は玉野−小川のスクリーンパスで先行したが、TFPのキックを外し、その直後キックオフリターンでTDを奪われる大苦戦。9−14で迎えた第4Q、玉野−小川のパスと谷口、村田のランで2TDを返し逆転勝ちした。
 関東は日大が関東選手権の準決勝で日体大に敗れ、その日体大を明大が倒して7年ぶりに甲子園へ姿を現したが、関学の敵ではなかった。関学の56点に対し明大7点。ベストゲームの一つといえよう。
 51年秋、関学は関西リーグでついに昭和22年以来の黒星を付けられた。連勝の数字は145で途切れた。無論相手は京大である。QB宅田を軸に完成されたIフォーメーションを駆使し、倉光、津島が好走。岡本がパスを受けて関学を21−0とシャットアウトした。
だが、関学は屈しなった。京大が関大に敗れていたため同率優勝。甲子園への出場決定戦では伊藤文主将以下が火の玉となって戦い、西村−志浦のパスなどで13−0と勝利を握って雪辱を果たした。
 明大との2年連続の対決となった甲子園ボウルは、明大の善戦で後手に回ったが、後半に明大守備網のわずかなスキを繰り返して突き第3Q半ばから第4QにかけてQB西村、RBの越中、村田が連続3TDを奪って逆転。29−20で勝利を握った。
 武田はこの年でいったん監督の座を下り、伊角にバトンを渡した。


「涙の日生」の京大戦。勢いを駆って、史上初の5連覇

 伊角ヘッドコーチのスタートは多難だった。52年春の関学は西日本大会で京大に0−35で完敗。慶応大との試合にも敗れた。主将の池内をはじめ志浦、伊藤忠の最上級生は必死だった。が、死に物狂いの夏合宿を経て、秋には一皮むけたチームに変わった。
 11月13日、雨の日生球場で行われたリーグ最終戦は歴史に残る名勝負だった。お家芸のパスを捨て、QB猿木とワンバック越中のランに切り換えた策が的中。守備陣の奮起と相まって、実力では関学をしのぐと見られていた京大に29−21と逆転勝ちを納めた。
 池内主将が語るように、「打倒京大を果たした勢いで臨んだ」甲子園ボウルは、猿木−志浦の鮮やかなTDパスを皮切りに、越中らがTDを重ねて51−20と大勝。史上初の5連覇を達成して伊角ヘッドコーチの門出を飾った。
 続く53年。頂点を極めたブルーの軍団は、反動的に苦難の一年を送る。春の近大戦で大黒柱の猿木が頚椎骨折で倒れ、悲壮感がチームに漂った。
   秋に入って、ここ数年の難敵・京大との激烈な対決に勝ち、リーグ30連覇という快哉を博す。そのあと、甲子園はあまりにも無惨。近未来の厳しさを痛切に予見させるものがあった。