昭和9年、日本でフットボールが始まる。
 その前史−−高名な体育人である岡部平太、大谷武一が
アメリカ留学中にフットボール練習に参加、岡部は帰国後、
大正末年、フットボール書を著した。
 昭和2年、東京高師ラグビー部員がフットボール研究と
練習を始め、4月に初めて練習試合をやり、6月に研究書
を出した。


神宮外苑競技場で、1万人の観衆を集め、日本で初試合を開催

 昭和9年秋、日本で最初のアメリカンフットボールが行われる。同年春、立教大のポール・ラッシュ、ジョージ・マーシャル両氏が早大、明大、立教大のアメリカ二世学生に呼びかけて組織づくりを始め、秋には真剣な合同練習を重ねていた。
 11月29日、神宮外苑競技場は、学生選抜軍と横浜外人チームの試合を見るため、約1万人の観衆で賑わっていた。スポーツの宮、秩父宮殿下が台臨あらせられ、グルー・アメリカ大使が開会の式辞を述べた。場内は派手な外人たちが華やかな彩りを添え、ダンスホール「フロリダ」のジャズ・バンドが演奏されるなど、その雰囲気は初めてこのスポーツを見ようとして詰めかけた日本人を驚かせた。試合は結局、学生選抜軍が26−0で勝って、歴史的な第一戦を飾った。
 同年12月1日、東京学生アメリカンフットボール連盟」が発足して、第1回リーグ戦を開始。結果は、明大が早大、立教大を破って優勝している。連盟はこのスポーツのシーズン制の確立、統制を提唱した。これは学生の本分を守るための措置であり、ルーズになりがちなわが国のスポーツ界に好個の指針を与えたものとみられた。



アメリカ選抜軍の来日、全日本の遠征など日米交流戦始まる

 昭和10年3月、アメリカ選抜軍が来日し、日本のスポーツ・ファンにフットボールの醍醐味を満喫させた。一行はサザン・カリフォルニア大学(SCU)を主力に、ほか5大学のスターを集めた豪華なメンバーであった。ヘッドコーチはA・L・マローニ氏で、SCU中心の紅軍と、その他の連合軍による青軍を組織し、紅青のエキシビションを主に、対全日本を含めて12試合を行った。
 3月23日、明大とSCUの初めての日米対抗は、やはり一方的で、7−71。同25日、初編成の全日本学生軍が全米軍と対戦し、6−73の大差がついた。
 翌11年12月、今度は全日本軍がアメリカに遠征する。チームは関東リーグの優勝を分けた早明両校を主力に立教大、さらにこの年連盟に加盟した法政大、慶応大も参加した。年が明けた1月3日、ロスアンゼルス・ギルモア競技場で初試合が行われ、南カリフォルニア州高校選抜軍に対し、6−19の敗北。いかに全日本といえども、本場では高校チームにすら歯が立たない実情を思い知らされた。一行は帰途、1月12日、ハワイのホノルルで同地のハイスクール優勝チーム、ルーズベルト・ハイスクールと対戦し、0−0の引き分けとした。
 この二度にわたる日米交流が緒についたばかりの日本フットボールの発展に大きく寄与したことは論をまたない。



第1回東西対抗戦を開始、関東リーグは3強鼎立の活況を見せる

 昭和12年度の関東リーグは早大の優勝。関西では10年始めからチームを編成した関大が13年5月に初めて法政大を55−8の大差で退け、進境著しいものがあった。13年3月、第1回東西対抗戦が神宮で行われ、21−0で関東の圧勝西軍は関大と神戸外人の混成チームであった。関東リーグの覇は13年が明大、14年が早大、15年が慶応大と交替し、三強鼎立の見応えある内容。各チームの攻撃はシングルウィング・システムが大勢を占め、かなり複雑なプレーをこなせるようになっていた。守備型も7−1−2−1一辺倒から随時、三段構えのマイナー・ディフェンスを採り入れるなど、総体に進歩が見られた。
 昭和15年、関東で日大、関西で同大がフットボールを始めた。その9月20日、連盟は「アメリカンフットボール」を「鎧球」と改めた。準戦時体制のもとで、文部省は国策に沿った大学教育の新体制への切り換えを求め、このスポーツにも影響を及ぼし始めたのである。